センスと暮らしの関係〜なぜ京都は美しいのか


「はじめに」より引用
これはセンスの本である。暮らしのセンスの本である。暮らしを楽にする本である。中略〜一方、京都の本でもある。よそ者が、しかし愛情を持って見つめ続けた京都、毎日の暮らしを通じて感じた京都についての本である。さらに、これはケチについての本である。ケチ、倹約、「もったいない」のすすめの本である。中略〜そして最後に、とびきり贅沢な暮らしをするための本である

大学時代にこの本に出会って、本屋で一気に立ち読み、購入。
その当時、自分が思っていた事のすべてをこの本が書ききっていると思ったものだ。
やはり、人類には仏教にでてくるような「共有知」というような者が有るのだろう。

この本の作者の思いとしては、日本人が戦後、(特にこの当時はバブル時代だからしてそれも加味して考えてほしい)「日本人としての暮らし」を無くして、地に足の着かない、根無し草のような、「借り物の暮らし」をしている、そして唐の日本人たちはそれを幸せと思っていないが、「いいこと」なのだと思わされている(洗脳されている)ように見えて、当然ながら幸せそうでは無い。
満足のいかない、借り物の、薄っぺらい暮らしを続けて疲れ果て、不満気な、不幸せそうな様相を国中で呈している。
では、「借り物ではない日本人の暮らし」とは何なのか、というのを生活全般にわたって書き記したのがこの本だと思う。
まあ、「日本人的暮らし」=「京都」というのも短絡的もいいところだろうが、少なくともあの底意地の悪い、いい意味でも悪い意味でも傲慢で誇り高い京都人は、戦後アメリカの自国礼賛洗脳にひょいひょい乗っかった訳でも、東京万歳ブームに乗っかった訳でもないから、東京で「デザイナー」というそれこそ地に就いてない職業の代表のような商売の人間が「日本人の暮らし」を見つめ直すために選ぶのに間違ってはいない事は確かである。

他のところでもちらりと書いたが、私は戦後日本人の「ハレ」の数日間だけ豪勢に金をかけ、「ヶ」はほったらかし、我慢するだけの日々、という暮らし方が大嫌いなのである。
この本の中でも、「ハレもケも無い現代」として、適当な暮らしと、その暮らしからの「逃避」としてただ金を出して購入する「非日常」としてのハレの貧しさを指摘している。

誰もが気づいているのではなかろうか?
今の暮らしの中に、「ハレ」も「ケ」もなくなって来ている事を。

「ハレ」の場所に、決まり事を守った装いで、誰を前にしても恥ずかしくない礼儀作法で立ち居振る舞う、という事を、「格式張って前時代的」だの「形式主義」だの「肩が凝る」だのと意味の無い批判をしてなし崩しに「カジュアル」にした結果、この国からは格式のある「ハレ」などは皇居に殊勲で出かける人でもない限り縁のない事になってしまっている。
しかし、一昔前なら、特別な家でなくてもおりおりの季節行事でさえ、きちんとした「ハレ」の日であり、面倒くさい行事のための準備と引き換えに「ケ」の日常でたまった生活の澱を祓う晴れがましさが存在したはずなのだ。
「めんどくさいからいんじゃね?これで」
というようなぐうたら根性でハレも、ハレを支える上質な日常としての「ケ」も手放した結果得た生活はどんな物だったか。

値の張るものではないが、手をかけてきちんと作った食事。
最上質の豪華な生地ではなくても、吟味して似合う物を選んだ着物。
同じく、豪邸ではなくとも、隅々まで掃除の行き届いた、清潔感と統一感のある家。
そういう上質な「ケ」の暮らしの延長上に、上質な「ハレ」の日が折々に差し込まれる暮らしが、日本人を支えて来た「幸せな日常」だったのではないだろうか?
なにも、芝居見物だの、コンサートへ行くの、旅行に行くのだけがハレではない。
ひな祭りのために、掛ける絵をかえ、生ける花を変え、花瓶を選び、ひな祭りのための食器をだす。食器やら花瓶やらを選ぶ余裕はなく、常の器を使うとしても、生ける花の選び方、生け方、供するごちそうの種類や盛りつけひとつでいくらでもハレの演出をする事が出来る。
手づからごちそうをつくる手間暇に比例して「ハレ」の気分は盛り上がる。
「ハレ」のための努力は何もしないで誰かのお膳立てにに金を出して乗っかるだけでは、上等の「ハレ」は手に入らないのだ。

「面倒くさいからお寿司は出前で」
「おひな様出すのは面倒だからなしで」
「食器を洗うのは面倒だから使い捨て容器で」
「着物なんて切るのは面倒、どうせ家だしジャージで」
「花?生けるのも捨てるのも面倒。無しで」

という家族の「ハレ」と、
「乾物を戻すところから全て手作りの五目すし、ちらし寿司、蛤のお吸い物」
「桃の花と菜の花の生け花」
「つり輪飾りに、ひな人形」
「ひなあられ、菱餅、飾りの飴、桜きんとんに花びら餅、草餅」
「ひなの蒔絵の取り皿、他は普段も使う物だけど、ひなにふさわしい色柄の食器を選んでしつらえ」
「お座布団も桜色のカバーに交換」
「家族みんな盛装の着物に着替えて、一緒に食卓を囲む」
こういう家族の「ハレ」とでは、味わえる「しあわせ」は天と地ほども違うだろう。
別に、高価な食器が無ければいけないのではない。
ひな人形が無いなら折り紙でつくったって言い。
花を買えないなら野に咲く花を摘んで来て、空き缶や空き瓶を洗ってきれいな和紙でくるんだっていい。
高価な材料は買えなくても、五目寿司に錦糸卵を散らしただけでも華やぐ。
蛤が買えなくて、お麩のお吸い物でも十分おいしい。
高価な着物でなくたって、リサイクルショップで買ったピンクのウールの着物だって華やぎだ。

ぐうたらな人間に限って、上質の生活が出来ないのは金がないからだなどと言い訳をする。
金があったって、執事に家政婦、メイドを大量に完備してるというのでもなければ手をかけずに上質の生活など不可能だ。

日本の文化は西洋文化と違って、金持ちの特権階級でなければ上質の生活が出来ないなどという事にはならない。
一輪挿しと、一抱えもある大壺に生ける生け花の価値を決めるのは趣味の良さであって、いくら金をかけたかではない。
金銀蒔絵で飾ってあるきんきらきんの家だけが美しいとされる事など間違っても無い。
数寄屋造りがいい例だ。
こういうとんでもなく上質の文化を持った国に生まれた国民は、自分がみすぼらしい生活しか送れないのを特権階級のせいにはできないのだ。
自分の生活の全ての責任は自分にある。
金がないから惨めな生活しか送れない、なんて言う輩は日本人ではない。

センスと暮らしの関係―衣・食・住の大改革

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