そもそも、人にとって宗教とは、信仰とは必要なのか 玄奘西域記 8

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大分時間が空きましたが、玄奘西域記シリーズの続きです。

玄奘西域記4つ目のテーマ、「そもそも、人にとって宗教とは、信仰とは必要なのか」の3回めです。
過去記事は、まとめにリンクをまとめてありますので、こちらをよろしければご覧ください。

連載記事まとめ

過去記事を読んで頂いた方には、私がかなり厳しい眼差しを「宗教」というものに向けていることはお分かりであろうかと思います。

もしかしたら、無神論者と思われている方もいるかもしれません。
私自身は日本人としてごく普通の汎神論者であると思っているのですが。

無神論者であるかどうかは、「神」という言葉をどう定義するかによって違ってきます。
キリスト教徒やら、イスラム教徒やらにとっての「神」の定義と、日本人にとっての「神」の定義がそもそもかけ離れているのだ、ということをあちらのある程度マシな宗教人くらいは「知識として」知っていますが、それ以外の教養なしパンピーは自分らにとっての神の定義以外の概念なぞもちろん理解できないどころか知識としても持ちあわせてはおりません。
時折、俺様は教養があって、「しんどー」しってるんだぜ、的な皮相の知識をひけらかすバカがいますが、皮相の知識すら満足に調べることすらできず、文字数にしてほんの1行程度の会話でも間違いゴロゴロ、という程度です。
早速話が脱線してますが、今回「神」の定義については特に深く突っ込まず、「宗教」「信仰」という社会現象についてのみ話を進めたいと思います。

玄奘西域記の時代、インドで仏教徒は「無神論者」と呼ばれて蔑まれていました。
なぜ蔑まれるかというと、仏教がヒンドゥーバラモン)の神の存在を否定し、信仰対象の「仏」は「神」ではなく、神を信仰するものではないから、という事になっています。
「神」を信じない者、「無神論者」が忌避すべき対象であるとの考えを持つのは、「神」を信仰しないものは、自分の行いを罰することができる「神」を信じないのだからどんな悪行でも平気で行う輩である、との理屈からというのが、日本以外のほとんどの宗教国家における人々の常識です。
日本人にはこの考え方は、そもそもどこからそんな考えが出てくるのかわからない、というのが正直な感想でしょうが、西洋諸国、イスラム圏内などの特に一神教を信奉する人間にとってはこれこそが常識なのです。

あれらの国々で「自分は無神論者」であると言うと、まるで刑務所から脱走してきた殺人前科100犯の凶悪犯罪者でも見るかのような対応をされるのはそのせいである、と聞いた時、心底こいつら土人なんだなあ、と納得したものです。

そもそも、
なんで「神」に見張られてなければ土人振る舞いをすると決めてかかるのか、日本人には理解不能でしょう。

なぜなら、日本人がはるか縄文の昔から今に至るまで、ずっと土民振る舞いと無縁の、世界で唯一といっていいほどの平和な社会を作ってきた経験、記憶を持つ民族であるからです。
何度も言っているように、人格レベルの高い人間にはレベルの低い人間の思考は理解できない。
逆もまた然り。
トイレットペーパーを公共の場で盗む人間、他人の携帯をロックがかからないままそこに置いてあるからと覗き見る人間がなぜそんなことをするのかは、そんなことを決してしない人間にはその理由がわからず、やる人間にとっては、なぜやらない人間がそのような行為をするのか理解できない。

バカの壁ならぬ、民度、人格の壁・・いや、溝が存在するのです。

相手の姿は見えていたとしても決して交わることのない、マリワナ海溝より深い溝が両者の間には横たわっています。
理屈ではない。
現実の事象として「そう」だから、なのです。
日本人にとっての「人間の現実」と、アレら土人国にとっての「人間の現実」は、まさしく、現生人類と原人を同列に並べる程に違います。

なぜ、そんなに「信仰」にこだわるのか?
特定の「教典」に記載された、人としての「則」を、「神」という人間を超越した力を持つとされる存在に、
「教典通りに生きないと罰を与えるぞ」

脅されないことには「人間」らしく正しく生きられないのが当たり前だ、それがなければ獣に戻ってしまう、というのがあれらの宗教を信仰する国々の人間にとっての「常識」だからです。

なぜそれが日本人にとっては「常識」になりえないのに、かの国々では「常識」たりえるのか?

それは、日本人が自分たちの社会、歴史を通じて「神」に監視されなくとも平和で豊かな暮らしを有史以来築いてきたのと反対に、かの国々では無法地帯のケダモノ北斗の拳世界、その歴史のほとんどが、彼らにとっての「人間」の現実が、歴史が、ケダモノ社会の連続だったからです。
過去に体験してきた、今現在自分たちが生きている現実世界が、日本とは違うのです。

人間が住んでいる社会で生きている人間にとっての常識と、ケダモノが見かけだけ人間の皮をかぶって暮らす社会で生きている土人にとっての常識が、同じであろうはずがありません。

土人が自らの属性であるケダモノを野放しにすると、社会を維持するのがあまりにも難しい。
自らの欲望のままに奪い、殺す。
奪う側になれなかったら、必ず奪われる側になる。

助け合い?信頼?なにそれ美味しい?
故に、生き延びるために、可能な限り民族の多数がケダモノ本能を抑えて社会を構成できるように、強力な力を持った「超越者」による「罪」の規定と、それを犯した時の「罰」による脅しを必要とした。
規範を守った暁の「ご褒美」を必要とした。

これが、日本人にとって理解できない土民国家にとっての宗教の現実です。
彼らが、自らの属性であるケダモノ気質を抑えこんで、社会をつくり、生き延びるための知恵、方策があのような宗教だったのです。
けなげじゃありませんか。
こうして考えてみると、確かにキリスト教イスラム教・ユダヤ教などのはびこっている、民族の歴史=殺戮と強姦と強奪と拷問の歴史と言った地域の住人にとっては宗教とは絶対必要なものであると言えそうです。
よく、宗教の名のもとに、神を奉じて行われた殺戮と、それ以外の殺戮を比べると神の名のもとに行われたもののほうが凄まじく多い、という説がありますが、果たしてあれらの国々で、「神」「宗教」というものがなかったらそれで「神」という免罪符の元、人間としての罪悪感が開放されて殺しまくる、ということが起きなかったかと言われると甚だ疑問をもたざるを得ません。
だって、「神」と「宗教」による縛りがなければ、やりたい放題になると今現在でも自ら認めてるわけですからねえ。

宗教は、正しく文化社会現象であり、発祥した土地における人間の性質と環境を色濃く反映して生まれてきます。
そしてそれが別の場所に伝播し、根付くには、その場所の環境が、人間の性質が、発祥した場所と似通っているか、さもなくば伝わった宗教がその土地の事情に合わせて変質するかしないことには根付くことはない、と以前書きました。
その理由がこれです。
日本に伝わった宗教は、なんであれ日本的になる。
一部のキチガイ信仰宗教は別として、長い年月をかけて日本に根づいた宗教間で、相手を殺してでも排除しなければなどという宗教対立が発生しないのはそのせいです。
逆に、隣の韓国に伝播したキリスト教が、どういうシロモノになったか。
そもそも韓国であんなにキリスト教が普及したのは、特に女性に過酷な奴隷労働を強いる儒教祭祀から逃れたいから、というのが一番大きな理由で、別にキリスト教の教義に感銘して改宗しているわけではありません。
まあそれでも、あのキチガイ儒教の教えから多少はマシなキリスト教義を真面目に学習するのはあの国の国民にとって結構なことだとは思うのですが、先ほど書いたように、宗教が別の土地に根付くとき、それはその国の状況が発祥地と同じ性質を持っているか、その国の環境に合わせて変質したときです。

朝鮮人とおなじ性質を持つ民族がこの地球上に多数いるとしたらそれこそ天を仰ぎたくなります。
そう、あの国でキリスト教はあの民族に合わせて大いに変質し、根付きました。

牧師は、信徒の女性や子供を教会で強姦します。
牧師は、俺様は牧師なんだぞ、尊敬しろ、と強要します。人より身分が上になって(朝鮮人脳規約による)威張れるから牧師になったんです。
牧師は、日本は神から見放された悪魔の国だと説教をします。
牧師は、日本に原爆が落とされたのは神の罰だとわめきます。
牧師は、日本に津波が来たのは神の罰だと説教します。
牧師は、劣等で韓国民に損害を与えた日本人を虐殺するのは神に与えられた権利だとわめきます。
牧師は、韓国民は日本女性を強姦するのは神に与えられた権利だと説教します。
牧師は・・・

そう、これが朝鮮人民度に合わせて変質し、根付いたキリスト教です。
そして、下朝鮮人の常識のままに外国へ移民してまで母国と同じ事をやらかし、年に何度も下朝鮮人の牧師が教会で信者を強姦したといっては捕まり、国際ニュースとして晒されます。

茨城県つくば市での強姦牧師

今度は韓国人牧師、未成年買春容疑で米警察に逮捕される=韓国

「韓国人」 「牧師」 「強姦」で検索すれば、良くもこれだけ、ってくらいうじゃうじゃ出てきます。

アメリカでは、人種によって行く教会が全く違うということは地域によっては珍しくありませんが、それでも、全ての教会が必ず人種ごとにわかれているわけではありません。
しかし、朝鮮人の牧師がやってる教会にはアメリカ中どこであろうと朝鮮人しか行かないことで有名です。
理由はお分かりですね?
いかな人種差別の厳しいアメリカだと言ったって、まさか黒人牧師が、
「白人は我々を奴隷化して虐待した。この罪が神に許されるためには、彼らは我々に謝罪の証として、同じように虐待されなければならない。彼らを虐待することは神によって許される。白人が災難に会うのは神罰である」
なんてことはいいませんよ。
それを、韓国人牧師は、「白人」を「日本人」に変えて、堂々と毎週のように「説教」するんですな。
そんな説教をする頭のイカレタ牧師のいる教会になぞ、まともな人間は行きはしません。だから、韓国人牧師の教会には韓国人しかいないのです。(間違えて紛れ込む、ということは有るかもしれませんが、そもそも新しい土地に来て、教会に行こうなどという人はもとに通っていた教会から新しい土地の教会を紹介されるでしょうから、それもあまり頻繁に起きることではありません)

まあ、朝鮮半島のヒトモドキを基準に宗教を論じても始まらないのでその他の世界に話を戻します。

子供の頃、西洋人の偏執的な宗教への固執はどこから来るのか知るために、聖書を読んでみた時感じたことは、
「なんだこの、幼稚園児や小学生に対してギャアギャアうるさく小言を言ってるみたいな、ガキっぽい規則の山は」
でした。

宗教の教典で、人間の精神世界を導くための話が書いてあるのはまだ理解できるが、なんだってこんなガキのしつけ以外の何物でもないことが延々と載ってるんだろう?
これが普通で疑問にも思わない西洋人や一神教の他の連中って、何なんだ?
どうして、これを説いてまわったという教祖は、こんなことを言ったのだろう?

小学生の私にはその時すぐに答えは出ませんでしたがこの疑問はずっと私の中でくすぶり続け、その後多数の書籍や体験によって、答えは自然と導き出されました。
簡単なことです。
「それが、教祖が教義を説いて回った人たちにとって必要であったから」
それだけ。

まるで、幼稚園児や小学生への小言のようだ、と感じたのは私が世界一の民度を持つ日本人の一人だから。
九九を知らない人間が算数を学びたいというなら、それが50の大人であろうと九九を勉強しなければならないのと同じ。
教えなければ、できないから教えたわけです。
日本人のように、脅していうことを聞かせなくとも、周りに合わせて勝手に学び、人となるなんてことは有りえないから、繰り返し繰り返し教典を叩きこみ、従わなければ「神」によって地獄行きだぞ、と脅した。

なぜ、日本人にはそのような宗教が根付かなかったか?
そんな子どもじみた脅しは必要なかったから。
それだけ。

子どもじみた規則に従わなければ公序良俗を維持できないような、劣等民族ではなかったからです。
大人に、幼稚園児用の躾なんぞ必要ありません。
子供だましな地獄行きだぞの脅しも聞きません。
「わるいごはいねが〜!」となまはげに脅されて怖がるのはガキンチョだけです。
まあ、仏教の寺には地獄絵図、なんていう虚仮威しのブッキーな絵がありますが、あれも子供をしつけるためのなまはげですわ。

よく、海外のネット掲示板などで、どうして日本にはキリスト教がなづかないのか、などと議論してますが、大人の民度世界一の日本人に、子供だましの土民用矯正マニュアルなぞ必要ないから。
それだけ。

かつて、あわよくば日本も他のアジアの国々と同じく植民地にしてやろうと意気揚々と乗り込んできた先遣隊のイエズス会の連中が、市井の日本人にこてんぱんに論破されてしおしおと母国へ帰り、「私のような凡才では賢い日本人をキリスト教に強化するのは無理、日本人を教化するにはせめてローマ法王レベルでなければ。べそべそ。こてんぱんに論破されて、答えられなかったよお」と泣き言書簡を送っていますが、さもありなん。
宣教師としてかの有名な、フランシスコ・ザビエルですよ(笑)

日本で、キリスト教徒だとかイスラム教徒だとかいうと、「私、キリスト教に興味なんて無いから!」と、まだ何も言ってないのにいきなり予防線を張られて悲しい、とか言うバカがいますが、お前さんがたのお仲間が、しつこく迷惑がられても罵倒されても、
「私はあなたを救ってあげてる」
などと精神病患者丸出しのストーカー行為で勧誘しまくったからそういう扱いを受けるんでしょーが。
なに被害者ぶっとるんだ。

民度世界一の日本人様にとって、「私、キリスト教徒(イスラム教でもなんでも、一神教系はどれでも同じだが)なの!」という連中は、
「神」という名の脅しと「教典」という名の土民根性矯正マニュアルがないと、ケダモノになっちゃうんです、私♡うふ♡
と言っとるのに等しいから、敬遠されるんだっつ-の。
何アホまるだしで「宗教に真剣なわ・た・し♡」なんて言っとるんだ、愚か者。

未だ、日曜に教会に行かないような輩は人間しっかくだああ!進化論なんてうそだああ!地動説は間違ってる!天動説が正しい!
などと喚くキチガイが国民の4割超のアメリと違って、ヨーロッパの連中は多少宗教離れができてきて、神を否定はしないけど、自分のすべてを神に捧げ-の、なんてことはしないの。
自分と違う宗教の人間を排除しようとは思わないの。
というとこに近づいてきておりますが。

このような、土民矯正マニュアルとしてのキリスト教や、イスラム教、ユダヤ教などから話を仏教に持って行きましょうか。
この「仏教」というのは、果たして「宗教」といえるものなのか。
「宗教」の定義にもよるでしょうが、少なくとも本来仏教というものは「信仰」というのとは違うものではないかというのが私個人の所見です。
もちろん、現在のブッダその他を「信じて仰ぐ」対象として据えている仏教は、宗派によらず「信仰」を行う「宗教」であることは間違いありません。

原始仏教の後にヒンドゥーの神々を「仏弟子」ということにして取り込んだ後の仏教はまた色いろあるにせよ、本来の仏教というのは、現世から解脱するための修行の方法を解いたものであって、それまでの某か崇める対象としての「神」なり何なりがいて、それを信じれば天国に上がれる(もっといい身分に生まれ変われる)といった信仰というのものからは、本来違うモノであったはずです。
故に、仏教徒無神論者とされていたわけで。
大変独創的な考えですよね、ほんと。

ヒンドゥーの理屈で、身分高い階層に生まれたか否かで凄まじい差別の発生する社会体制を憂い、その身分制の論拠となっている輪廻転生自体を否定し、「苦界」たる現世に「生まれてこないこと」=「解脱、悟りを開くこと」を目標とする、ってんですから、本来は「信仰」とは違うはずです。
まあ、「ものの考え方」を「信じて仰ぐ対象とする」ってのもありなのか。
何も、信じ仰ぐ対象が「神」という対象でなければいけない、という決まりはないか。
自己啓発活動サークルとか、そんなのりですよね。
その方法論を解いた創始者を神聖視することによって、結果仏教は正真正銘「信仰」を行う「宗教」となった、と。
皮肉なものですね。

人間の心というのは弱いもので、悩み事があって、自分の手に負えないとなれば、何か超絶した存在が自分に力を与えてくれないかな、と夢想したり、祈ったりするのは自然なことだと私は思うので、信仰自体を全否定する気は全くありません。
精神科医に話すか、坊さんに話すか、仏像に心のなかで話すか、それで精神が安定し、心の安寧を得られるのであれば有益なことです。
自分で問題を解決することを完全放棄してただ神頼みをすることに逃げるような事にならなければ、ですが

しかし。

それを人心掌握、と言うよりも自分の都合のいい奴隷を作るための手段として悪用する、というのが有史以来の「宗教」の、ほとんどの姿だというのが私の認識で、それが故に「宗教」に対してはとりあえず距離をおくことをモットーとしております。

そもそも論として、上記では宗教に精神的安寧を求めることは自然なことだとは書きましたが、本気で神仏(ほかなんでもいいけど)がどうにかしてくれると信じこんで、神頼みをしなければ自分の精神状態を平静に保つことができないという類の精神的に脆弱な人間がわたしゃきらいなのですわ。
「天は自ら助くる者を助く」
「人事を尽くして天命を待つ」
これが私にとって望ましい「神」との付き合い方で、まず自分で努力した上で、助けてくれるかどうかはわからないけど神仏にもお祈りしておこう、という謙虚な姿勢であれば何の問題もないと思うんですけどね。

自分では何もやらない(やってるつもりだけど無駄なことばかりして努力してるつもりなのも含む)くせに、神頼みで楽してどうにかしようというぐうたら根性の人間の、浅ましい心が「宗教屋」につけこまれるんじゃなかろうか、と常々思っているわけです。
「XXを拝めばそれで何もかもうまく行く」「あんたに不幸が振りかかるのはXX様を拝まないから。修行すれば何もかもうまく行く」
なんていう怠け根性まるだしな営業トークに、自分の怠け心でふらふら正当な努力もしないでいい思いをしようと邪な欲をかくから騙され、利用されるんです。

「修行すれば」とか、「お布施をすれば」とかは、楽をするのとは違うんじゃないか、というかもしれませんが、楽をしてんですよ。
問題を解決するために本当は何が必要なのか、自分に悪いところはなかったのか、自分に真剣に向き合って嫌なことも直視して、やりたくない対応も面倒臭がらずに自分の頭を使ってやるやらないを判断するのを全部放棄して、怪しげな教祖が「これさえやれば」とか言うのにのっかって済まそうってんですから。

当然、やるべきことから逃げてうまく行こうはずもなく、それを宗教屋に愚痴れば「奉仕が足りない」だのと怒られ、さもなきゃ「あなたは間違っていない、おかしいのは世間の方だ」とか言われてそれを好転させるにはさらなるお布施が必要とか言われて、物理的にも精神的にも宗教屋の家畜となる、と。
それを、そういうのに引っかかる人は心優しい疑うことを知らない人なんだなどとかばう人がいますが、
心優しく疑うことを知らないんじゃなくて、ただものぐさで脆弱で馬鹿なだけです。
優しいのではなく、根性がなくて弱いだけです。

私のような、宗教心にも慈悲心にも薄い人間は、そんな輩はろくでなしのハイエナに食われて死にゃあいいぐらいにしか思わないケダモノなんですが(だって、人間も自然の一部の動物ですから、自然界の掟たる弱肉強食の理から逃れられませんしね)本物の宗教人というものは私のような修行のできてないケダモノ人とはひと味違います。

玄奘の兄、長捷さんと玄奘とのセリフです。
玄奘は、仏教を布教するためと言いながら、仏教を出しにしてお守りを売りつけるようなインチキ商売をしているとしか思えないプラジュニャーカラから、長捷さんの心臓のための薬をもらい、それを兄に飲ませつつ、仏教を商売道具にするプラジュニャーカラを罵倒している場面。

げ「仏教を広める?あんな見世物で寄ってきた一を仏教徒って呼べるか!」
ぷ「現世利益を伴わず宗教が広まった歴史なんてありませんよ。
一般大衆は教えよりまず効き目のあるものを信じますからね。
教えは後回しでいいんです」

・・・その後、長捷さんに薬を飲ませつつ
長「ほう、そんなことを」
げ「そう!仏教を広めるためって火渡りをやったりして でもあんな広め方っておかしいよね
仏教ってもっと精神性を重視した高尚な学問なのに」

長「玄奘・・・人がまじないに頼りたくなるのはなぜじゃろうな」
げ「迷いや悩みで右も左もわからなくなっているからじゃないの」
長「そういった人に「そんな低級なことはやめてこっちに来い」と言ったなら誰一人仏教徒になどならぬじゃろうな」
げ「兄さんは!あんな奴の広め方が正しいっていうの!?」

長「・・・祈祷師のことはよくわからぬがこの薬はよく効くのう」
げ「え、本当?」
長「うむ、からだがかるくなる
こんな風に、目の当たりに効き目を見せられるとそれをくれた人間をも信用したくなってくるものじゃよー人の心情とは」

長捷さんのような人にとっては、厳しい環境や災難によって心弱くなり、思わず楽な方へとふらふら流れていく人間は、「自然の掟によってただ食い荒らされる定めの弱い個体」とは見えないのでしょうね。
「手を差し伸べ、いたわり導くべき対象」なのでしょう。
たとえ、それらの輩が自らに手を差し伸べてくる人間に取り付いてその寄生して暮らしていこうと考えている輩だとしても。
そのような考えしか持てないことを哀れと考え、そのような有り様を責めることなく改心させることも、己の徳によってできるのかもしれません。
が、市井の、宗教人でもない1ケダモノたる人間は、そのような技は持ち合わせがないので、寄生されてこちらが逆に死んでしまうのがオチなのです。

「そもそも、人にとって宗教とは、信仰とは必要なのか」
本来このテーマで玄奘西域記の場面から紹介したいところの本命にまで行きませんでした・・。
つづきます。

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