人かわり名かわれど それ(神)はただそれ(神)〜聖なる花嫁の反乱

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紫堂恭子氏の作品は以前もご紹介したことが有りますが、ぼんやりしている内にいつの間にかこの作品完結いたしておりました。

作品の質自体は大変高いと思うのですが、この完結は・・。
うーん、いまいち!!

完結に至るまでの作品の流れに全く不自然なところがなく、素晴らしい出来であった上に最後に明かされた作品の主題も素晴らしいものであっただけに、それを提示する場面がひたすら駆け足の、言葉による演説のような有り様で終わってしまったのが残念。

とりあえずざっとあらすじを。
ネタバレ注意。(というほどものものは有りませんが)

100年前に、神に捧げる9人の「花嫁」の儀式に選ばれたうちの一人が逃げ出したため儀式は失敗に終わり、その結果国が海に沈んで滅び去った(という言い伝えの)エーレの民。

世界に被害を及ぼしたエーレの民は、破壊された世界で迫害を逃れてこっそりと暮らす民と、新天地を求めて隠れ里で幸せに暮らす民とにわかれ、それぞれ次の「神に花嫁を捧げる儀式」を行おうとしていた。

その儀式で正常に花嫁を捧げられればどんな願いでも叶うという「伝説」故に、花嫁を手に入れようと世界中がうごめいていた。

隠れ里に暮らすエリセは9番目の花嫁に選ばれ、そのための修行をしていたが、恋人のリオンは「花嫁」が儀式の後に殺される運命だと知ってエリセを逃がそうとし、荒れ果てた「外」の世界に追放されてしまう。

それを知ったエリセ(花嫁)はリオンを探しに隠れ里から逃げ出して「外」に行き、「花嫁」を神に捧げるため隠れ里から神官の追手がかかる。
花嫁が出現したとの情報で「外」の世界の有象無象からもエリセは追われることとなり・・。

というお話。

キモは、そもそも神がなぜ生贄としての花嫁を望むのか、それを達成できなかったら世界を破滅させるほどの罰を与えるのか、という儀式そのものの意義です。

神が生贄を〜あたりは、旧約聖書の世界だな〜と思いますが。

で、いろいろあって「花嫁が神に娶られる」ためには、それを補佐する神に選ばれた印のある人間が8人揃っていないといけないということがわかり、その印の意味が最終巻で明らかになると。

その印の持ち主に本来この儀式に関係ないはずのエーレの敵国の王子がいて、これが伏線になっています。

「花嫁を神に捧げる8人」が揃い、「儀式」が始まると、エリセの頭上の上空に、様々な「神」の姿や象徴の紋章が現れます。

「花嫁を娶るのは吾々の神だけではないのか?!」

そこで8人のうちの一人が、ヴァンに問います。
「一体どの神が本当の神なんだ!?」

ヴァン「さあな、俺はどの神も信じちゃいないから」
ザディアス「神を信じていない?神はいないと言っているのか?」
ヴァン「いやそうじゃないさ
ただあの姿形や性質はあんたたちが神に与えたもの
どれが本物と言われてもどれも同じだ
人間は目に見えるものや
頭で理解できるものしか認知できないからな
自分たちに一番しっくりする神を作っただけなんだ」

以前過去記事で、宗教というのはそれを生み出した民族の性質に会うように作られ、その宗教が拡大して他の土地に根付く場合は、その宗教を生み出した民族と同じような性質の民族であるか、宗教のほうが根付く側の民族に合わせて変質しない限り、別の民族(国)のものとはならない、と書いたことが有ります。

そもそも、人にとって宗教とは、信仰とは必要なのか 玄奘西域記 8

以前から宗教がらみのネタとして持っていたのが、「宗教」と「神」との違いをきちんと認識している人間の少なさ。
そして日本以外の国の人間にとっての「神」と言う存在についての認識能力の低さ。

というか、知能が低いせいで「神」などという究極の抽象概念について理解することなど不可能な低能土人が、不釣り合いな「神」なんぞについてくちばしを突っ込み、挙句「宗教」などを作っておらが「宗教」の「神」が正しいと戦争やらかすバカ丸出しの喜劇について。

過去記事でも繰り返し、バカに宗教はキチガイに刃物に似たりと、嘲笑してまいりましたが、その理由をうまく理解してもらえる場面がコレだと思います。

私は別段無神論者というわけではなく、普通に高度なエネルギー体、意識体としての人が「神」と呼ぶ存在はいると思っていますが、自分がそのような存在と交信出来うわけではない上に、そのような存在と交信できるとのたまう輩がそれを客観的科学的に証明できない以上、その手の輩が興した宗教なんぞすべからく眉唾だと思っております。

ただ、宗教の看板さえ掲げればそれで人がついてくるというものでもないでしょうし、怪しげな神様論議だの預言者だのの話はすっ飛ばして、その宗教の教義が人間が生きていく上で役に立つような事を述べているのであれば、そのへんだけつまみ食いしてなになに教徒というのが悪いことだとは思いません。

このブログで事あるごとに批判している哀れな低能宗教信者と言うのは何の宗教によらず、頭に「原理主義」と言う文言がつく、もしくはそこまで行かずとも原理主義的に全く頭を使わずに宗教教義を盲信して科学的論理的会話が成立しない、アメリカの人口の半分を占める進化論なんて嘘っぱち、神が世界を想像したのだ、天動説が正しいなんて言っちゃうバカのことです。

まあ、そこまでではないとしても、ハッキリ言ってキリスト教徒だのイスラム教徒だのユダヤ教徒だのの一神教は過去記事で書いてきたように基本自分に従わない奴は全部殺せ主義を内包するキチガイですからして、「親がその宗教やってて自動的に信者ということになってるけど全く活動などしたことがない」と言う人間以外は警戒してしかるべきでしょう。
一神教以外でも勿論怪しげな新興宗教などは軒並みアウトです)

キリスト教ユダヤ教イスラム教の連中が他に比してウルトラ級にアホなのは、連中が崇め奉っている神とやらは基本同じものだと認識しているにも関わらず、自分が正しいのだと喚砕けでは飽きたらず殺し合いまでやらかすところです。
それも一回2回やって懲りるどころか、1000年単位で今だに延々とやらかしているんですからまったくもってバカにつける薬は有りません。

今回の本とは別に、この件に関して印象に残っている言葉がありまして、あしべゆうほと言う作家の「クリスタルドラゴン」と言う長編マンガが有ります。

この本の初期の巻に出てくるセリフで、

月についてレギオンという謎の剣士が、主人公のアリアンロッドに言うセリフがあります。

「人かわり名かわれど それ(月)は ただ それ(月)」

このセリフが宗教と神民関係を端的に表しているなあ〜、と思ったのです。(はじめて読んだのは小学生の時ですが)

月、と言うのは地球の衛星です。
月がある、というのは宇宙空間に存在する物質という意味では固定なのかもしれませんが、「月がある」と言う状態は、それが「有る」と認識する存在(人間)がいてはじめて成立するものです。

月が物質的に存在するとして、それを認識するものが「仮に」全くない場合、それは存在するとはいえない、というより認識できないのです。

そして、認識する存在があったとしても、その認識が物質一つにつき必ず同じものになるということはあり得ません。
事実、日本語で月は「月」ですが、英語では「MOON」。
月に住んでいると伝説されるのは日本では兎ですが、他国ではまたぜんぜん違う。
地球から見る月とはいえ、住んでいる地域の気候条件によって見え方もまた違う。
それを、「月」は「むーん」ではなく「つき」というのが正しいんだ、月には兎が住んでるんだ、いや違う月には悪魔が住んでいるなどと、自分では証明だてるすべすら持たないことについてもっともらしく神学だ何だと理屈をつけて論争した挙句殺し合いまでやらかしている、というのが過去から現代まで続く宗教戦争と言うものの実体です。

「人かわり名かわれど それ(神)はただそれ(神)」

低能な人類が、自分の信じる「神」こそが正しいと言い立てたところで、正しいも何も、「それ(神)」は「それ(神)」なのですww
「月」とはなにか、と定義するにはそれこそ神レベルの「情報」が必要です。
人間レベルで「自分こそは月と言うものについて世界で一番正しく豊富な情報を持っている」
というためには、実際に月に出かける手段くらいは持っていなければ話しにならないでしょうが、月に出かけるどころか、月を肉眼で見ることすら出来ないようなレベルの連中が、「神」は俺の言うとおりのことを言っただの、俺は神の言葉を聞ける預言者だの、救世主だの、そういう与太をいい年こいた大人が本気で信じて経典とやらを作り、やれ礼拝だの何だのというゴッコ遊びをしている。

これ、アニメやら漫画やらにハマり込んで、その中のキャラクターを神様扱いする信者たちとやってることはほぼ同じです。
違うところは、アニメやら漫画やらに嵌ったオタクたちは節度というものを持っていて、私はセーラームーンを信奉しているセーラー信徒だから何処へ行くのにもセーラー服を着る!
セーラー服以外の物をきろというのは宗教の弾圧だ!
などと抜かしたりはしないし、月の光を浴びた聖なる食品しか食べる訳にはいかないから給食に専用の食材で料理したものを別に作れだなどとも言いません。

アレルギー持ちで食べたら身体に害があるというならともかく、己の趣味でアレが食べられないコレが食べられないというなら食うな、という話です。

昨今、イスラム教徒の学生のために特別に豚肉を除いた給食を提供する学校ができたりしていますが、そんな事は断じて行ってはなりません。
単なるわがままで食わないだけなんだから、いよいよとなったら一人だけ弁当でも持ってこさせりゃあいいのです。

本来は、給食を全校生徒が共に食べることで食育を行っているにもかかわらず、わがままで自分は弁当にするというのですからそんな輩は教育上好ましくないとして放校処分にしてもいいぐらいです。

そうしなければ、教育の大義が立ちません。
特定生徒の単なるわがまま(宗教で禁止されてるからやらない、食べない、etc)を許容するのであれば、他の生徒も全てそのようなことが許されてしかるべきだからです。

私はピカチュウ教徒だから常にDSを持っていなければならないいい!!!
と言ったとしたって、宗教なんだから許すべきでしょう。
ブルカを許すんだったらwww

そうでなければ、コレは宗教弾圧ってことになるまっせw
勿論、キチガイイスラム教徒どもの頭の中身と違ってまともな一般人は、国家の法、社会的伝統、常識が宗教なんぞよりも上位に来ることを認識していますからそんなことを言い出したりはしません。

特定の宗教団体が母体となった学校だって別に設立が禁止されているわけではないのですからなんとしても豚肉抜きの給食が出る学校でというなら私立のその手の学校を、日本の国内法の教育法規に則ったカリキュラムで設立してそこに通わせればいいのです。

その手のがっこうをつくることを禁止しているというのであればそりゃ信仰の自由の侵害と言われても仕方有りませんが、当たり前ですが日本においてはそんな禁止法規は有りません。
ただし、学校の授業でイスラム教徒(キリスト教徒)以外の異教徒は人間ではないから殺していいだの、進化論は間違いだのという与太を教えることは禁止されます。
当然です。

そういう話がしたいのであれば学校ではなく、与太の宗教会合で行うべきです。
オタクが、コミケ会場などで、エース様は死んでなんかいないのよ!エース様は神よ!とか言って、怪しげなワンピースのエース様を称える踊りとかやったとしても、それを仲間内で趣味として行い、公共の場やら職場やらに持ち込まなければ、また、エース様を崇め無い人間は動物だから殺していいなどと言って犯罪行為に及ばなければ、

「いい年こいた大人が恥ずかしい真似してるぜww」

と世間から嘲笑されるかもしれませんが、いいじゃありませんか。本人たちがそれで幸せなら。

ただし、一応世間様に迷惑は書けないにせよ、職場で
「私はエース教徒です。エース様の食べたメラメラの実は2050年に太平洋に出現し、私はそれを食べてエース様と同じ能力を獲得すべく云々・・・」

などと、笑いを取ろうとしているのではなく本気で言ってるんだと認識された場合、例え他の日常生活や業務をまっとうに行っていたとしても、精神的におかしい人と認識されて距離を置かれたり出世に縁がなくなったりしたとしても、それはしかたのないことです。

コレはれっきとした宗教差別、と言っていいと思いますがw
以前別記事で書いたように、「客観的、科学的、統計的事実を根拠に差別することは正当な差別」でありますからして。


さてちょっと話を先ほど引用した文章に戻します。

「人間は目に見えるものや頭で理解できるものしか認知できない」

コレについて、また別の本からですが、面白い一致があるのでご紹介しましょう。

硝子心眼シリーズ(1) 硝子心眼 (HONKOWAコミックス)

硝子心眼シリーズ(1) 硝子心眼 (HONKOWAコミックス)

「本当にあった怖い話」に連載されている実在の霊感人間のカヤちゃん絡みのお話をまとめたもので、この中のエピソードに、親戚の家のとある廊下の柱に、毎晩「鎌」が出没して柱を打ち付ける、というので見てほしいという依頼があったと。

で、この原因というのが、カヤちゃんに以前借りを作ったことの有る「神」(というか霊体とか、神聖なエネルギーというか)が、その家の主のやらかした心霊絡みの揉め事についての警告と、家の守りを行っていた、ということで。

親戚が、「なんで神様が鎌の姿なんかで出てくるんだよ」
という問いに対する答えが、
「あの神様の持つ「気」を、人間の脳が認識しうる一番近いイメージが「鎌」だったんだとおもう」
と言うもの。

「神」のみならずこの世の全ての現象は「情報」として存在するわけです。
その情報を、何によって受信し、どのように出力し、出力された「情報」を更に一体何で「受信」するのか。
それによって、「それ(情報)」はおなじだとしても、「すがた(出力)」はどのようにでも変わる、ということです。

よって、この鎌の神様の姿を人間の姿で捉えることができる受像機能を持っている人間がいたとして、アレは鎌じゃない、人型の神様だ!と喚いても意味が無いのですね。

俺様と同じように認知しろ!!俺様の言ってることが正しい!

といくら喚いたところで、ホンニ意味は無いのです。

いつか、あの手の宗教バカどもにもこういう簡単なことが理解できる知能が備わりますよう、八百万の神々に伏して祈りを捧げるものであります。


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