日本文化=軍国主義と言う洗脳工作に気がついていますか 〜きくちいまが伝えたい!買ってはいけないきものと着物まわり

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この本について書き出した時は、本の内容にとんでもない間違いが有る部分について言及するつもりではあったのですが、ここまで長くなるとは思いませんでした。
書いてる内に、昔から思っていた、
日本文化を守ろうとすること、日本文化に精通していることを貶めようとする意図、シナ共産、アメリカ、在チョンによる、日本文化=軍国主義と洗脳しようと戦後ずっと呆れるほどの情熱で行われてきた洗脳工作について言及する良いネタであると気がついてしまったのでw
基本、着物に関する記事では有るのですが、かけ離れた内容を盛り込んだ長編になってしまいました。
お時間の有るときにお読みください。

では、本の内容に行きましょうか。

きくちいまが伝えたい!  買ってはいけない着物と着物まわり

きくちいまが伝えたい! 買ってはいけない着物と着物まわり

作者のきくちいま氏は、着物業界の人間というわけではなく、イラストレーター&エッセイストです。
氏が、たまたま通りがかった呉服店のショーウィンドウに飾ってあった着物に一目惚れして着物の世界にどっぷり浸かる経緯を書いたエッセイが発売された時、ああ、こういう本が出るようになったのだなあ、と感慨深く思ったことを懐かしく思い出します。

もう、うん十年前になるのですね・・。
それからずっと、着物のほのぼの系のエッセイ本を多数出版されています。(というか、それ意外の分野での本はほぼない)

アマゾンの書評であらかたの内容は網羅されていると思うのですが、今回の本は呉服業界への批判本です。
業界人ではない、と書きましたが、呉服業界人ではないが、着物エッセイのみが仕事内容、と言うかんじでしょうか。

飯の種である業界の批判本を出すというのが勇気のいることであると言われればそうでしょうが、他の業界の人間にしてみたら別に勇気もへったくれもないわけで。
アマゾンの書評では、「いまさんのような立場の人がこんなことを書くのは勇気がいっただろうにありがとう!」
みたいな書評がたくさんあったのですが、そんな特別業界にとって困ったことが書いている気はしません。

書いてある批判内容自体は、着物好きの一般人なら一度は体験した、もしくは聞いたことが有るようなことばかりで特に新鮮味のあることは書かれていません。
これまで着物に全く縁がなく、着物好きの頼りになる身内もいない、と言う人にとっては役に立つかもしれませんが。

とは言え、他の本同様、イラストが多い、軽妙な文章の本なので、楽しく読めます。
本人が、自己犠牲をしてまで読者のために業界批判する私!と言う書き方をしているわけではありませんので誤解のないようにw

が。
業界批判の部分とは別の部分で、「うわ〜こりゃないわ〜」
という部分が有りましたので、ここについて少々。

後半部分に、「着物や帯の重い軽いってナニ?」
という章があり、そこで着物の格について、商品提供を受けての写真掲載で例示してまで解説しているのですが、これが間違いだらけのひどいものなのですわ・・・。

突っ込みどころは山とあるのですが、根本的な間違いの元は、この人、柄の豪華さと、格式をと同列に並べてごっちゃにしてるんですね。
「(格が)重い」と言う言葉で。
これは、着物に詳しくない初心者を混乱させるだけです。

しかも明確に間違っています。

もうひとつ言うなら、同じ着物の種類(訪問着なら訪問着、小紋なら小紋というところ)で、同じような格式の柄であれば、カネがかかってる、もしくは豪華な柄のほうが「格が上」と勘違いしてしまってるんですね・・。

格式と柄の豪華さには関係がありません。

ただし、「柄」には確かに「格式」があります。

が、その「格」の所以というのは一様ではなく、数学の方程式のようにこの種類ならこれより上、とか、格を決める理由がなにか一つの基準で決まる、というものではないので、一つ一つ勉強して覚え、また着物と帯、小物との取り合わせ、髪型、柄の付け方、諸々を考慮して都度判断するしか無いのです。

インスタントにどうにかしたいと言ってもどうにもならないからこその文化であり、教養です。

例えば、着物の種別として同じ「訪問着」で「あれば」、柄付けが豪華(大きい、数が多い、色数も多い)だけど、柄の格式が低いものと、柄が寂しくて、柄の格が高い柄の着物があれば、後者の柄が寂しいほうが「格上」になります。

この本の作者が混乱を招くような書き方をしたのは、

格を表す重さ軽さを決めるのは着物の色と柄の数。
色数と柄が多いほど重く、格が上になります。

の部分です。
まあ、色に関しては、濃色はかつて身分の高い人間しか着ることができなかった、許されなかったという経緯がありますし、皇族ででもあれば禁色としてそれこそ黄丹のように、天皇陛下しかお召になることが不可能な色というのもありますが。
一般人にとっては、何ぞ色に関して決まり事が生ずるような特別な場でもない限り(結婚式とか葬式とか)、公式の場で薄い色目だからとか色数の多寡で格が下がることも、色の種類によって格が下がることもありませんし、礼儀に反するようなこともありません。

着物の格を決める要素は、紋の有無と種類、紋の数、柄の持つ格、着物の種類(浴衣、小紋、色無地、江戸小紋、付下げ(小紋柄)付下げ(訪問着柄)、訪問着、振り袖、色留め袖、留め袖)です。

着物の種類については、現代における一般的な格付けの下から並べましたが、これとてその柄行、紋の有無と種類によって格は上下します。
まかり間違っても、色数と柄の「多さ」によって格が上下することはありません。帯もまた同様です。
これらによって上下するのは「格」ではなく、「値段」です。

これで格が上下するなどと考えるのは、「値段の高いものであれば格が上でしょ」と言ったも同然の、恥ずかしいことですので、まかり間違ってもこんな事を鵜呑みになどしてはなりません。

例として、同じ「訪問着」であれば、よくよくふざけた柄を描いたものでなければ、柄の格が低いからどうの、などということが同じ場に置いて問題になる(礼儀に外れる)ようなことにはなりません。
招待状に、「鶴の柄意外はご遠慮ください」等と、特別な意向を凝らした席であるが故に書いてあったのに、雀で行った、などというのでなければw
(こういう席に招待されて、鶴の着物を持っていない、といった場合にどうすればいいのか、というのも、大人であれば当然わきまえていなければなりません。)

そもそも、格がどうの、というのを礼儀上問題にしていい服装というのは、和装の場合、究極を言うなら紋のあるなしだけになります。
国際プロトコルとして、某かの招待状を受け取った場合の、ドレスコードにブラックタイだのホワイトタイだのと書いてあるのに相当するのが、一つ紋だの五つ紋だのということです。(ま、現実には紋があるかどうかより、服の素材、質感、柄の雰囲気になりますが)
着ていく燕尾服が超高級テーラーでオーダーした、ヴィンテージのシルクで〜とかいうことがなくとも、「公的な」場に出かける際にはとにかく、招待状に「ブラックタイで」とあったなら、ブラックタイに相当する服装をしていれば、礼を守ったことにはなる、というのと同じです。
(ただし、これはあくまで「公的」なものだけで、いわゆる「社交界」な場所となると、「暗黙の追加ドレスコード」がある場合は勿論あります。けれど、そういう私的な場所は、その場に集う仲間内でのお遊びなのだから集う人のルールに従うのが当然です。)

和服にかぎらず、少なくとも国際プロトコル上、同じ用途(イブニング、カクテル、などのドレスとか)であれば、それ単体として見た時の「格式」は、値段の過多に限らず同等です。
同等であるがゆえに、TPOに合わせて、礼儀に外れることなく、懐具合の差や、服飾的センスの良し悪しと関係なく、礼儀にかなった装いを万人がすることが可能になるわけで。
金をかけてあるとか、技術が難しくて希少な飾りをつけてあるとか、豪華だとか、趣味がいいとか、そういうことは礼儀と格式の世界とは別の趣味嗜好の世界であり、これをものさしにして人様の服装の「格」を決めるような輩は、無知無教養無文化ゼニゲバ成金思想の底辺層だけです。
絹であるとか、金銀を使った帯であるとか、柄がどうの、というのを全て「家風に反する」「当家は贅沢を禁忌とする」「蚕を殺す絹地は用いぬ」「柄があるのは虚飾」と言って、白襟、白襦袢、黒五つ紋付、全て木綿 新品じゃないけど常着でもなさそう、と言う格好で来られた方がいた場合、「木綿なんかで来やがってpgr」なんてやらかした日には、バカにした方のお里が知れると、笑い者になるなるのがオチです。
(まあ、ここまでのことをするからには、それを私生活においても貫き通している事が大前提ですが)
基本の礼を尽くしているにもかかわらず、金銭のかけ具合が少ないなどと言いそやす連中ではなく、招かれたほうが笑いものになるような集団であるなら、毅然としてそんな卑しい連中とは縁を切るべきなのです。

服装においての礼儀だの格式というものが、何の為にあるのかと言うと、本来は、自分の服装を見る相手への思い遣りです。

祝い事や不幸があったと招かれた際に、「あなたのことを大事に思っています」という気持ちを服装で示すために服装に関する礼儀やら格式が有るのです。
服装で自分への敬意を相手に示せと強要するために有るのでは有りません。
おもいやりを示すのに絹でなければ金銀でなければイケナイ、等と言うのは、教養無のお育ちが知れる輩と断定して構いません。

それがどんな「名家」出身者だとしてもです。
柄が、絹地の種類が、紋の種類が、帯の柄行が、袋帯でないと、etc これらは全て、社会が豊かになったがゆえのオプションです。

それはそれで文化の一つですから否定されるべきではありませんが、これらのオプション文化を楽しむためには基本を理解していること事が大前提です。
則ち、オプションに価値を置かない人間が基本を守っているにもかかわらず笑い者にするような事は下品にして恥ずかしい真似であると骨の髄まで理解している事、オプションを好む程度が人それぞれであり、自分の服飾に関する流儀を尊重してもらうと同時に相手の流儀、価値観も尊重することです。

誰にも、贅沢を虚飾と考え、黒の木綿しか着ないと決めている人を貧乏臭いとバカにする権利はないし、思う存分きらきらしいおしゃれをしている人を軽薄だの、浪費癖が有るのと非難する権利も有りません。
心の底から余計なお世話です。

人それぞれ、美意識も、金銭感覚も、ものに対する執着も、何に情熱を燃やすかも違い、服装に興味のない人だとている。
そういう中で、人間社会を営んでいく上での最大公約数としての約束事があり、一人前の社会人ならここだけは守っておきましょう、という物が、価値観の違う人の間で摩擦を起こさないための約束事として存在する。
しかし、それは、社会を構成する大多数の人間が暗黙の内に常識として共有するものであるため、社会情勢が変化すれば、それに連動して変化していくものでも有ります。
これもまた、社会人であれば理解し、対応する能力を持ち合わせていなければなりません。
これについて、ひとつ確実に恥を「かく」方法をお教えするなら、

「私の時はこんな格好しなかったのに、常識がない」

と他所様のお召し物に難癖をつけてみることです。
よく、「着物お直しおばさん」「批評おばさん」として知られる人間は、この恥掻を堂々と実践している輩です。この記事をお読みになっているかたで、こういう輩に絡まれたら、臆さず以下の言葉を放ってください。

「まあ、他所様のお召し物に口を出すなと躾けられたこともないような育ちの下賎な輩が何やら喚いていること。恥を知る教養を授かっていないって不幸なことね。」
自分の装いに自信がなくとも、これまで述べてきた基準であなたが「礼を失した」格好をしているのでなければ、また仮に、結果として礼に叶っていない格好であったとしてもそれが不可抗力であったなら、その旨堂々と釈明し謝罪した上で、自分に誇りというものを持ち合わせているのであれば、断固として引いてはなりません。

言うのです。

相手が誰であろうとです。

そこで黙っているということは、美徳でもなんでもありません。

なぜなら、そこで黙っているということは、
「へへえ、私より身分が上の奥様旦那様、みっともない格好をお目にかけまして奴隷ごときが全く申し訳ございませんだ」
と言ったも同然です。
「ええ、私は全く礼儀何でものわきまえる教養などございません下賎のものでございます、ハイ」」
と言ったも同然だからです。

自分と、自分に連なる一門の名誉は自らが守るべきものであり、それができない意気地のない輩はバカにされて当然です。

(勿論、誰かれ構わずバカにして回ることを推奨しているのではありません。バカにされて、戦いはせずともきちんと反論し、自分の立場を守る事ができないということは軽蔑されてしかるべきことだと言っているのです。)

まあ、この手のバカに言葉を発するような事を惜しむ、というのであれば、チラリと一瞥しただけで相手が恥じ入るような侮蔑光線を視線から出せるように訓練しておきましょうw
こっちのほうが日本人的では有りますが、昨今の恥知らずの増殖は、口に出してこの手の輩を黙らせる事を面倒臭がらずにガミガミやってくれる根性の有る方が激減したからではなかろうかとも思っておりますので、私は両刀でいきます。

こんなことは、ほんの少し前の日本に置いては常識もいいとこだと思っていたのですが。

人間として一人前になる、ということは、単に勉強ができるとか、某の稽古事ができる、というだけではダメだというのは「常識」などという言葉を使うこともはばかられる日本全体の共通認識だったはずです。
齢7つにもなろうというのであれば、ひと通り他所様に対する口上ぐらい、いざとなったらつるつると親の代わりに、礼儀に外れることなく対応できるのが当たり前。
お客様のお迎えご案内おもてなし、ひと通り箸の上げ下ろしならぬ、足運び、襖障子の開けたて、お茶の運び方、供し方、お下げするときの口上etc.
できなきゃろくでなし扱いだったのです。
これらは日本において、階級差なく、基本の礼儀作法、教養というものは共有されていました。
これらの家庭での躾として伝承されていく「教養」の中に、「装い」に関する礼儀作法、そのような礼儀、作法のおこり、理由も入って「いた」のです。

なぜ、この伝承が途絶えたのか。

常々、私は自分が子供の頃(戦時中とかじゃありませんよ!)はまだこういうまともな価値観が生きていたものが、あれよあれよと、まともな躾もされていない、自分一人で自分の面倒も見れない、挨拶一つ満足にできない、何かあっても自分の頭で考えて行動することもできない出来損ないが量産されていくのを苦々しく思っていました。

現在の、ゆとり世代の使えなさは誰もが嘆き倒しているところでは有りますが、そのような輩が大量生産されたのは何も学校教育のせいだけではありません。
というより、学校教育などは主犯ではなく、むしろ主原因は家庭と、社会です。

彼らの親世代は、まさしく私の世代と言っていいのですが、この世代はいわゆる団塊ジュニア世代と言われ、「お受験」が全てという価値観に毒されて、パパンは企業戦士と呼ばれて家庭には不在、ママンが、「あなたはお勉強さえして大会社に入ればそれでいいのよ」と、なにからなにまで面倒を見てくれて何もできないクズが育ったり、もしくは共働きで鍵っ子になり、家庭での躾らしい躾や、手料理0でレトルトおんりーになったり、といった世代です。

この世代の両親世代、いわゆる団塊世代の人間が、学園闘争やらでおかしな共産主義に中途半端にやられたり、伝統文化を守るのは父権主義の名残だなどと、意味の通らない受け売りを、ぐうたら無礼の言い訳に厨二病ヒステリーを起こしてみたりした世代なのですな。

この手の連中には着物を着るというのは封建主義、軍国主義女性差別だなどと、論理性のない思い込みを喚くバカがものすごく多いのです。
この世代が、戦後の「何でもアメリカ風礼賛」と言う浅薄思想の暴風雨の中、「自由」の概念の履き違いをやらかして、
無知、無作法であることが自由であると勘違いし、無知、無作法を咎め立てすることを、旧弊な身分制度礼賛主義、封建主義、家父長主義の押し付けだなどと、日本人破壊工作をやらかしていた共産左翼工作員共のお題目を鵜呑みにしてわめきたてたものだから、モノ知らずでいることを恥を思うことも、そのような連中に対して「親の顔が見たいものだ」と面と向かって注意する風潮も、めっきり無くなってしまった。

これは日本という国を根底から揺るがす大問題です。

本人にも、社会にも、無知であることが恥ずかしいという常識が無くなってしまったなら、誰が面倒くさい基礎教養をきちんと修めようとするでしょうか。

長くなったので続き物に致します。

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