チマちゃんの和箪笥

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[rakuten:book:16232025:detail]

初めての作家さんなのですが、本屋でタイトルに惹かれて購入。

大学生時代に、「和ノ道倶楽部」というサークルをみつけ、着付けができるようになりたいと入部し、その後リサイクル着物などを扱う店を祖母の地元で開業し、店主となったサークルでの源氏名wチマちゃんの日々と、変人な部長(男)との再開、恋バナが、淡々と描かれている素敵なお話でした。

この間ネットで上智大学で浴衣の日が作られて、構内に浴衣姿の男女があふれている話が載ってましたけど、今はそんなことまで有る世の中になったのですねええ・・。
このお話に出てくる大学の「和ノ道倶楽部」にしても、華道部とか茶道部とかで着物を着る、というのじゃなく、学内でふだんの日でも和服だったり、立ち居振る舞いから訓練する、というようなものでした。

まあ、ある意味茶道での割り稽古みたいなものといえば言えるのですが、このお話で、「今週のお稽古 美しい立ち方、座り方」というお題の時。

最近は床の間や和室が見られなくなりつつありますね
そのため襖や障子を開け閉めすることが忘れられようとしています。
しかし美しく座ることが和ノ道の基本の所作なのです。

というセリフが出てきます。

この話を読んだ時に、ああ、こういう立ち居振る舞いとかいろいろ、子供の頃は必死に学び、常に意識して暮らしていたよなあ・・。
というのを思い出し、反省至極。
まだ身についていないうちは頭のなかに常に意識して自分を律していたものが、ひと通り学び、習慣化し、そしていつの間にか「意識しなくてもできている」から、「意識しなくなってしまっている」に変化してしまっていることを自覚・・・。

身だしなみもそうなんですけど、姿勢、仕草は、きちんとしつけをされ、毎日をそのしつけ通りに折り目正しく生きている人と、そうでない人とでは一目見ただけでいわゆる「オーラ」が違うんです。

自分自身がそういうオーラをまとっていたときは、特別と思わずそういう人がたくさんまわりにいたけれど、最近とんとそういう人を見かけなくなったなあ、と思っていたのですが。
実際に家庭でのしつけもなっていなくて、近所の人の目を意識すすることもなくなり、「生まれたまんま」の躾もされていない、ぐにゃぐにゃしたカワウソみたいな無様な動作で世間をうろついている日本人は激増しているのでしょうが、自分自身の中身が発するオーラのランクが下がると、それに比例して同じような環境にいってしまうのでしょうねえ。磁場に引き寄せられるというか。

これに気がついたのは、この本を読んでいて、少し前にとあるお寺で、お墓の販売をしている営業の担当の方にあった時の衝撃から。
年配のご婦人、特に凄まじい美人というわけではない、服装だってきちんとしているけど、何を着ていたかと記憶に残らないような特徴のない地味なもの。(BCBGぽいですね)なのに、思わず立ち止まってその姿を眺めてしまうほどに美しい所作であったのです。
すさまじいなあ。
永年のぐうたらを、もう習得したから、いざとなったらできるからと言い訳を託つて、でも悶々とぐうたら生活を後ろめたく思ってきた人間の目を、言葉ひとつ発したわけでもないのに覚醒せしめるのだから。

おそらくは、寺社勤務ということもあって永年お茶も嗜んでこられたのも、何もおっしゃらずともわかる。
しかし、そこの寺の坊さんたちの所作は汚らしく荒々しいことこの上なくて、恐怖さえ感じるようなものだったし、他の寺でも坊さんの立ち居振る舞いに感心したことなぞ一度もないから別に仏門に入ったからそういう所作が身につくというわけではなく、多分に人格も影響するのだろうが。

言葉遣い、発声、なにより、事務所を送り出してくださった時の、お辞儀の仕方。
忘れていた、そうだ、こういうお辞儀をする人に普通に接していた暮らしをしていたではないか。自分だってしていたではないか。
なんでわすれてたんだろう、という衝撃。

子供の頃はわかっていた。常日頃が大事なのだと。
いざというときだけ、気取ってみたところで、日々のぐうたらはにじみ出てしまうのだと。

ものすごく反省。

最近、曹洞宗の禅僧である、升野浚明氏の「美しい人」シリーズが静かなブームとなっているのも、私と同じようなことを感じた人が多いからではないのだろうか。
先日、「禅が教えてくれる 美しい人を作る「所作」の基本」を手に入れて読んでみたが、心染み入る内容だった。
この本についてはまた別記事で紹介したいと思います。


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