ふだんの着物

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久しぶりに着物関連の本のご紹介。

リメーク小物で楽しむふだんの着物―小物と帯作り、帯結び

リメーク小物で楽しむふだんの着物―小物と帯作り、帯結び


私はとにかく物を捨てられない人で、かつ、正しい日本人として、物を擬人化して付喪神がつくのを自然に肯定しているんですね。
よって、「ものころし」「物を粗末にする」というのが嫌いというより、生理的にダメなんですな。

物欲の塊のくせに、物を大量に買い込まないでこれまでこれたのも、使い切れずに捨てるのが嫌だったからです。
何しろ、子供の頃からいつかは、くるみを潰してボロに包んで柱や床を磨くような生活がしたいと思っていましたからねえ。
三つ子の魂100まで、現在その願いは叶っているのですが、まあ、くるみはたくさんあるけど、学生時代にカルディで投げ売りしていたくるみオイルを食べられないしと床磨きに時折使うくらいで。
一部屋くらいならともかく、3部屋+台所に玄関、洗面所となると結構床磨きも重労働で・・。
昔のだだっ広い日本家屋を磨きあげていた主婦ってすごい。
ダイエットのためにスポーツクラブで自転車こぐような馬鹿な時間の使い方よりは家事労働するほうがずっとマシ、というのが信条なので、いいんだけどさ。

体力搾り取られるほどやるんでなければ、無垢の木に油を刷り込むのは楽しい作業です。
黄の色が変わり、しっとりとし、胡桃油のいい匂いがする・・。
1部屋ずつ順繰りにやればいいだけの話なんですけどね。

例によってあまり関係なさ気な前ふりをだらだらやってますが、もう少しお付き合いいただいて。

日本人としての、地に足の着いた幸せな暮らしの原点というのは、こういうところにあると私は思っております。
物を購入し、文字通り「消費」(使い切る、ではない)することを目的とした「贅沢」というのは皮相的で、のどが渇いている時に人工甘味料で味付けした果汁0%のジュースを飲むような行為に思えます。

自分が手に入れた、「もの」
その「もの」には必ず「作り手」がいます。
日本人なら、「物を大切にしないと、もったいないオバケが出るよ!!」
と母親や祖母に叱られ脅され(笑)した記憶があるのではないでしょうか?
自分がものだったらそんな扱いされてどんな思いがする、と叱られた記憶が無いならそれは日本人とはいえないと思う。(いや叱られるまでもなく物の気持ちになって大事にしていて叱られたことがないというのは有りなんですが)

そして、もう一つ、日本人ならではの考え方として、ものづくる人の心構え、というものがあります。

着物を作る人は、着物を着る人が温かくあれかし、怪我から守ってやれかし、美しくあれかし、丈夫に長持ちして持ち主の役にたてかし、持ち主が幸せになれかし、と願って、念じて作る。
家具を作る人も、家を作る人も、野菜をつくる人も、みなそう念じて作る。
それが当たり前、その心構えができない職人を、必ず親方は叱って教育する土壌があった。(今もあると思いたい)
そういう気構えで作られたのではないものは、半人前の作った半端物であり、そういうものには金を取らないで「修行品」として「使っていただく」気概がありました。

今も、ごくまっとうな企業や職人、そしてそんなことを教えこまれていない日本人でもそういう精神は「空気」として受け継がれているとは思うのですが、上記のようなことを、言葉として発しているの効くことがものすごく少なくなったように思えます。

聞こえてきたとしても、チェーン店あたりの新人教育の枕詞として「お客様にご満足をお届けする〜」的な、本来であれば日本人として腹に収まる言葉のはずが、金儲けしか考えないワタミブラック会長のおためごかしにしか聞こえなくなっているような。

手作りがなぜ尊ばれたのかというのは、そういう、作り手の、使う人への「念」に相当する「幸あれかし、健やかなれかし」という「氣」が、機械生産品よりも豊富であるから、と思われていたからでしょう。
もっとも、まともな日本の企業の作ったものであれば、機械生産の機械にも、機械を置いておく建物にも、もちろん材料にも、同じ思い入れをして作ってしまうので、手作りの品に勝るとも劣らない「氣」の入った「もの」ができてしまう。

私は、家電製品にもやはり「付喪神」扱いしてしまう人間で、この冷蔵庫はあの貧乏だった学生時代に私の買いだめ食料品を冷やしてくれた、働き出してからも長年私のために黙って食材を冷やして待っていてくれた(冷蔵庫がビール冷えてるよ、なんて喋り出したらそれこそ妖怪だっての)などと思い入れしてしまい、捨てるなんてとんでもない、となってしまう。
新しい製品にしたほうが電気代が安くなるんだから、家電なんてどんどん買い換えるのがいい、などということを言う人間を、私は信用、信頼出来ません。
(ついでに言うなら、あの手の「得」ってのも、買い替え費用と合わせてトータルすると、たいてい買い換えたほうが足が出るんですよね)
よく、物を粗末にする人は人間も粗末にする人、というが、あれは理が通っていると思う。

自分がそういう扱いをされたら、どういう心持ちがするのか、ということを考えないか、考えても察することができないか、さもなければ察していてもそんなことに頓着しないか。
でなければそういう行動は取れないはずだからです。

着物ならば(和服にかぎらず洋服も昔は「着物」だったんですが、最近は「着物」=「和服」の扱いですな)、手に入れたらきちんと手入れをして、大事に着倒して、どうにも糸が弱ってきたならいたんだところはボロにして、いたんでないところは何か小物に再生して、それでも傷んだら、ボロにする。ボロにして使い倒した布は、風呂焚きにでも使って、灰は畑にまく。
さすがに釜炊きの風呂は持ち合わせていないので、ボロとして使い倒したあとはゴミに出していますが、子供の頃から布を形のままゴミに出したことはないですねえ。

で、やっと今回ご紹介する本の内容にはいると。
この本は、和服で普段暮らす際のいろいろな小物の作り方の本なんですが、写真も今時の本にしてはかなり地味な部類に入ると思います。

掲載されている作品は、皆作者の私物で、本のために作った、という感じはしません。(多少はあるんでしょうが)
そして、本の文章部分でも記載があるように、自分の身内から譲られた着物を、いろいろな小物に仕立て直している作品を掲載しています。

古着屋で購入した帯地で、半幅帯を作ったあまり切れでふくさを作ったり、同じく余り布で作った半襟、刺し子を施した雑巾、端切れで作ったカード入れ、前掛け、針刺しや割烹着、卓上箒の根締めの掛布まで。

良い感じの日本家屋を背景に、モデルさんなのか、作者なのかわかりませんが、普段着の地味だけど趣味の良い着物姿の写真も載っていて、眺めているだけでも楽しめます。

巻末には半幅帯での変わり結びの結び方が数通り写真付きで掲載されていて、どれも素敵です。
タスキのかけ方、なんてのも図解されています(笑)
半襟のかけ方も載ってます。

眺めていると、地に足の着いた、「使い切る」くらしが輝いて見えてくる。
「売れればいい」「お前ら安いものしか買えねえんだろ文句言うな」で、店に「うちの商品は低価格だから品質が悪くともまともに使えなくとも文句を言うな」などと張り紙してあるダイソーの如き(いや、ほんとに貼ってあるんですって。初めて見たときは目を疑ったよ。あれ、日本人がやってる会社じゃないんじゃないか?)泥棒商売商店に売っているものを買うのがためらわれるようになる。
作り手の思いが、持ち主となった自分を、物に宿った付喪神と一緒になって守ってくれるような物を手に入れて、付喪神と作り手が喜ぶような扱いをして暮らしたい。

そんな気持ちになる本です。


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