差別はいけないことだと思い込むあほな人々3〜好きで障碍者に生まれたのではない、好きで朝鮮人に生まれたのではない

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差別はいけないことだと思いこむあほな人々3回めです。

出身大学や成績は個人の努力で変更でき、生まれた人種や家族や国籍は自分では選べないからそれを基準に差別するのは不当だと言う人がいます。
が、私はその意見にも同意しません。

なぜなら、それらの情報に基づいて差別するのは、「自分で選択することができない」という点を除けばすべて「現実に意味のある事実」に基づく差別だからです。

現実に、特定の国の国民が、長年にわたって比較対象の国よりも犯罪発生率が高く、その国の文化として窃盗が「悪」と認識されておらず、女性を強姦するのは文化的に男性の権利とされており、1日に働く時間は4時間までと決まっていて、それ以上は頑としてはたらこうとせず、自分の信仰する宗教の戒律に則って会議中だろうがなんだろうが突然お祈りを始めたり、神への冒涜になるからと科学技術を否定したり、数学は悪魔の学問だと学者を襲ったり、強姦されても女が嫌がっていれば妊娠しないと科学的に証明されているなどと実際の科学的検証結果とは真逆の持論を披露して堕胎産科医を襲撃して殺すことを合法化しろと喚くことが社会的支持を集めたり・・・。

特定の一国についての現実を並べたわけではありませんが、上記のような現実を持つ国の国民として生を受け、その文化の中で育った人間が、その国の現実に基づいた評価に従って他の国と「差別」されるのは当然のことです。

すべての国の国民は、帰属する「国」の持つ評判に基づいて「差別」されます。
特定のどこそこの国に生まれたら、その国の評判とは無縁で生きることができるなどという例外はありません。

日本人は日本人として他の国家の国民から「差別」されます。それは日本国という国の持つ現実から作られた評価に基づく差別です。
アメリカ人はアメリカ人として他の国家の国民から「差別」されます。アメリカという国の国力、文化、振る舞いに基づく差別です。

自分は好きで日本人に、アメリカ人に中国人に生まれたわけではない、生まれた国で待遇が違うのは不公平だというバカがいますが、もっと金持ちの家に生まれたかった、自分が貧乏人の子供なのは不公平だ、子供は平等でなければスタートは平等でなければ、だから金持ちのお前はおれに金よこせなんて駄々をこねることが正当なことだと思う人はあまりいないでしょうが、どういうわけか国籍だの人種だのの話になるとこの手のダダをこねるバカが湧いて出ます。

生まれる条件を選ぶことができない(生まれる前に魂は選んでいるのなんのというのは科学的証明ができていないので考慮に入れません)のは自然界の絶対条件なわけですから、生まれ落ちた時に持ちあわせた条件は、ただ受け入れる以外ないのです。
その条件が嫌だというなら、その条件に基づいて差別されることを糾弾するのではなく、持ち合わせた条件が差別の理由からはずれるよう、自らを変えることが差別を解決する絶対条件であると前回書きました。
私は、持って生まれた条件は受け入れるしかないが、だからといってその条件が自分に不利なものであった場合、それを改善してはいけないなどと言う気は毛頭ありませんし、それが不可能だなどともつゆほども思っていません。
むしろ、生物として人間として、正しい振る舞いとしては持ち合わせるすべての能力を持って改善すべく努力するべきだと思います。
ま、「改善すべく努力」するかどうかは個人の自由なんですが、そういう努力をするのは嫌だと言うのなら差別だなんだと喚くなと。

特定民族に関しては、それが「不可能」に限りなく近いくらい難しいことであるとは思っていますが。
なに、具体例を挙げろ?
いや〜、それはちょっと。

ええ〜そうですかああ?
じゃあ、言わせて貰いますなら、そりゃその手の能力が絶望的なまでに欠けている世界一の民族と言えば、
朝鮮人でしょう
二番目?
シナ(いわゆる漢族)人でしょう。

世の人々に蔑まれる系の差別をされる民族だの国家だのは、つまるところ、そういう努力をする気配を外から感じることができない輩が多数を占めるからであるでしょう。

シナ人、朝鮮人が世界中の人々から蔑まれ、ゴキブリのように嫌われるのは、現在における、現実の彼らの振る舞いが人外のゴキブリ獣行為だからなのはもちろんですが、彼らがその状態から人間に進化すると思われる過去の実績(昔と比べれば徐々に良くなってるとか。欧米人あたりは今でも獣がほとんどですが、それでも過去の歴史を振り返ればかたつむりの歩みとは言え進化している実績があります。)が全くないからです。

そして、そのような状態が延々、先に上げた国の民族のように、千年単位で変化がないとなったら、そりゃあこいつらの民度が向上するなんて太陽が西から昇る確率とまでは行かないが、地球に巨大隕石が落下する確率と同程度しかないと思われたってしょうがないでしょう。

とは言え、それくらいの確率とはいえ、シナチョンでも日本人並みの民度になれる「可能性」がないとは断言しません。
「可能性」と「現実」は違いますしね。
「可能性」はただの「可能性」、「差別」はあくまで「現実世界」における「事実」に基づいて行われるべきであり、「〜できる可能性があるからその可能性を重視して現実は無視しろ!」などと喚くバカのいうことを「なるほど」などと聞いてしまうなど、馬鹿の骨頂というものです。

私は、いわゆる人間として忌むべき「差別主義者」、というのは、特定の過去、現在の事実に基づく差別は自然界の物理法則なみに不変であるとなんの根拠もなく、もしくは宗教的価値観によって断じ、それを元に差別条件を事実と照らし合わせることなく固定化しようとする輩のことであると思っています。
ただし、現在時点における事実に基づく「差別」は、将来「現在の事実」が変わるかもしれない、という理由によって制限されるべきだとは思いません。

では、差別理由が個人に由来するのではなく、個人が生まれ持った、変えることのできない自身の属する集団の評判によるものであったら?
これも、差別を解決する条件は明快で、その集団が持つ評判を差別の理由から外れるよう、集団全体を変えること以外にありません。

すなわち、私は黒人だけど、朝鮮人だけど、中国人だけど、アメリカ人だけど、ロシア人だけど日本人と同じように民度が高く振る舞えるのに、黒人として中国人として朝鮮人としてアメリカ人としてロシア人として差別されるのは不当だ、と喚いた所でどうにもならないということです。
自分が属する集団の評価が変わらない限り、自分に付随する背景への「事実」に基づく扱いの差、すなわち「差別」はなくなりようがないのです。

個人として、その人が、その人の属する集団の一般的評判からかけ離れた人だとしても、そんなこと初対面の人間にわかるわけがありません。
わかるわけがないのだから、その人の属する集団の持つ評判によって、その人への対応を決めるのは当たり前のことです。
それなのに、個人の属する集団の評価が低いからといって、特定個人がその集団の評価通りであるという絶対保証はないのだから、属する集団の評判で個人を評価するのは不当な差別だ!
きちんと個人として付き合って本当にひどいならそういう対応をとるのも仕方ないが、付き合っても見ないで拒絶するな!

この、図々しいにもほどがある主張が、現在はお人好し日本だけではなく、わりと世界でも「建前とはいえ」受け入れられているのですが、これはとんでもない主張です
人間に与えられた時間は、世界一の大金持ちも世界一の貧乏人も等しく過ぎ行き、1日は24時間です。
その限られた時間の中で付き合う人間を決定する権利は誰にでも自分自身にあります。
誰だって、好ましい人と好ましくない人であれば好ましい人と付き合いたいわけです。
自分は悪い評判を持っている集団出身だというのに、なんだって他人に、評判のいい集団に属する人間と同じ扱いをしろと言えるのか。

特定の個人が、自らの主義として物好きにも最悪な評判を持つ集団に属する個人を、面識ができるたびにもしかしたら例外かもしれないと、評判のいい集団に属する個人に対するのと同じ対応をするのは、個人の自由です。
その集団に属する善人対悪人の比率が仮に1:10000だったとするなら、その人はおそらく生涯、期待を裏切られ続けて終わるでしょう。
それでも、自分は集団の評判を個人に負わせる人間になりたくない、どんなひどい目にあっても!
というのは、自分だけに迷惑がかかる状態を維持できるなら好きにせい、というところです。

現実にはそんな状況を作り出すことができる人など、ほとんど存在しないはずだと思いますが。

こういう人は、「不当な差別をしないワタシ」に酔ってるあほたれです。
「ワタシは朝鮮人差別しない!」
で、朝鮮人とわざわざ付き合って、世界に名高い国民皆強姦魔の朝鮮人男を自宅に招き、挙句自分の娘が強姦されました。
と、しましょう。
これが、生物の権利たる「差別」を適当な判断で行った報いというものです。
自分の行った「差別」の結果は、自分で受けなければなりません。
こんなお花畑馬鹿を家族に持って、家族を強姦されたり自分が強姦されたりしたご家族は気の毒ですが、こんな馬鹿と結婚した責任は相方個人にあるし、こんな馬鹿の子供に生まれてきたという不運は、朝鮮人に生まれる不運と同じく、自然界における甘受すべき条件なわけで。
何もわからない子供ならともかく、ある程度大きくなっているなら、馬鹿な身内に見切りをつけて自分を守る責任も発生しますしね。(棒)

ありとあらゆることを自分で確認した事実ではなく、インターネットでも、書籍でも、口コミでも構いませんが「自分が直接確認したわけではない情報」だけで判断する輩は馬鹿者です。
そして、「自分が直接確認した情報」以外は信じない、という輩もまた馬鹿者です。

物事の判断をする場合、すべての場合において上記の2つを揃えられればよいでしょうが、現実にはそうは行きません。
故に、人は、大して重要ではない案件に関しては、個別に「自ら確認した情報」を揃えようとはしませんし、それどころか、「自分が直接確認したわけではない情報」すら、大して揃えようとはしません。

上っ面の、自分の属する集団の評価だけで自分個人の評価も決まってしまうのは、その人が、評価する相手にとって、時間をかけて個人としての中身を確認したいと思わしめる程の魅力などないからにほかなりません。
それは、100%その人物の責任であって、世間一般の人間に、特別な価値を提供できると思わしめる事もできないくせに、評判の悪い集団に属する自分に時間を割いて、その人物がどんなものか観察、評価せよなどと強要できると考える基地外思考を先ずはどうにかしようか、って話です。

よく、日本人であるというだけでちやほやされるなどというのはこの反対で、当たり前ですが特別な能力や魅力を保持しているわけではないただの日本人でも、他国に人間に比して良い扱いを受けるというのは「日本」という世界一評判のいい国家という集団の一員だからです。

個人の中身など見ることはなくとも、日本人ならきっと良い人に違いないという「評価」、その評価に対する期待から、悪しき評価を持つ集団に属する人間より優位に立てているのです。
それは、天から降って湧いた評価ではなく、過去から現在に至るまでの日本人の営々たる営み、「評価すべき事実としての行動、事象」の積み重ねによって獲得したものです。

よって、現在とんでもなく評判の悪い集団が、日本と同等の評価が欲しいというなら日本が行ったのと同じ「評価すべき事実」を同じ量だけ積み上げればいいだけです。

やれば出来ますよ。
とんでもなく難しいだけで。

それをやらない責任は、当の集団、民族、国家を構成する一人一人にあるわけで、その責を不当な差別だなどと、前に上げた稚拙な基地外論理で他人に転換するなというのです。

一つ具体例を上げましょう。

一昔前、頭に蛆のわいたリベラル主義者が、偏差値偏重の受験戦争や、大学のブランドのみで足切りする大企業を、偏差値や大学のブランドだけが人間の価値ではない、一流大学以外にも有意な人材はたくさんいると批判するのが大流行したときがありました。
さらには、日本企業が物まねだの、想像力がないのは、そんな偏った人材しかいないからだと喚いたんですな。
で、この批判に大企業が反省して、出身大学での足切をしなくなったか?
するわけがありません。

そもそも、なぜ一流企業が足切をするかと言ったら、募集人数に比して応募人数が多すぎるからです。
あほなサヨクは、
一人一人の応募者と向き合えば大学のブランドや成績だけではわからない人間的魅力や能力がー!!

などと喚いていたのですが、一人一人の人間的魅力や、学力試験では判定できないような能力とやらをどうやって客観的に判別するのかについては知らんぷりです。
縁故採用など差別だと喚く癖に、客観的に判断できない「人間的魅力」とやらで面接官が採用するのは差別にならないという摩訶不思議思考には苦笑するよりありません。
何より、当たり前ですが、企業の側に応募してくる人間全員を面接するような金銭的、人的余裕があるわけもありません。
入社試験にかかる費用はタダじゃないんですから。
大企業が出身大学で足切するのはそれが優秀な人材を大量に簡単な選別方法で確保するために、理にかなっているからです。

鮭をとりたいと思っているのに、わざわざどぶ川で網を張る馬鹿をする訳がない。
どぶ川にももしかしたら何かの間違いで鮭がいるかもしれないが、鮭が帰ってくる事で有名な川で網を張る方が確実かつ大量かつ簡単に決まってます。
優秀な大学に、過酷な入学試験を突破して入学し、優秀な成績で卒業するということは、必要な時期に提示された条件を消化する能力があることを証明し、入学試験に合格するための知的能力があることを証明しているわけです。
条件を消化できなかった人間と「差別」するのは当たり前です。
「差別」の条件が、「試験結果という公平性の担保された状態での知的能力の証明」「一定期間内(高校在学中)に入試突破に必要な知的能力を獲得する手段を実現する能力」「一定期間内(大学在学中)に一定の知的能力を証明する(卒論・試験成績)実行力」だからで、それは入社の条件として事前に提示されているのですから、その会社に入りたいのであれば条件をクリアすべく努力すればいいだけの話です。
もちろん、有名大学を優秀な成績で卒業していなくとも、優秀な企業家となった人は現実に居ますし、中小企業に就職して頭角を現し、大企業に成長させるような能力を持った人材もいるでしょう。
それをして、あほなお花畑は大企業の学歴偏重主義を批判するわけですが、そんなのは統計的誤差の範疇に入る確率で発生する例外に過ぎず、現実にはやはり偏差値の高い大学の学生のほうが偏差値の低い大学の学生より、全体としては優秀なのです。
もちろん、その時点においては、ですが。
偏差値の低い大学を出たあと発奮し、高い能力を身につける人はたくさんいるでしょうが、確定していない未来の可能性を元に他者より優位に扱うなど、それこそが、「不当な差別」です。
本当に、例外を基準にして物事を論ずるのが、どうして馬鹿は好きなのでしょう。

入社試験は、未だなんの仕事上の実績を持たない、ひよこ学生を入社させなければならない企業が、効率的に将来有望な学生を振り分けるために行うものです。
別に、彼らに「優秀なビジネスマン」「業界を震撼させるような能力」を「今現在の時点で」求めて振り分けを行なっているのではないのです。
そんなものを、学校出たばかりのなんの実績もない学生相手に求めようがありません。
そういう人材がほしいのであれば、学校出たてのペーペーではなく、実績を残している現役をスカウトすることで人材を補充するわけで、春の一斉入社試験ではそんなことは要求されていないのに、見当違いの理屈をつけて文句を言っているわけです。

学歴でのみ判断して人間性やその他の個性的能力を鑑みないのは間違ってる等と言われた所で、役に立つ保証も客観的指標もない個性的能力とやらを主眼において選抜などした日には、バカとウラナリの山を背負うことになることまちがいなしです。
大企業は実際定員の内、誤差の範囲内では一流大学以外の大学からも採用をしているのです。

企業経営は博打ではありません。
当たるかどうだかやってみよー♪
なんてことをやらかしたら、社員全員路頭に迷わせることうけあいです。

これと同じ事が、国籍、民族、その他もろもろの差別基準にも当てはまるのです。
なぜ差別をするのか?

差別という名の、相手が信用に値するか、付き合うに値するか、雇うに値するか、結婚するに値するか、などなどの選別判断を誤れば、自分が、家族が、地域社会が、会社が、国家が、民族が、生き延びることができなくなるから差別をするのです。

誤った差別(判断)を行えば、その責任は自らが取らねばなりません。
自分で、評判の悪い集団出身の個人の評価を行わず門前払いにした結果、その人物が素晴らしい能力の持ち主で、素晴らしいヒット商品を開発して多大な利益を上げたとしても、入社試験でその才能を見出す客観的科学的指標が現実に存在しないのだから、それは仕方ないと割りきるだけです。
だいたい、その会社に入っていたらその人物が同じ成果をあげる保証などどこにもありません。
世間一般の評価を優先して損をすることは当然ありうるが、なぜ世間一般の評価に基づく差別が一向に無くならないのかといったら、確率的に世間一般の評価に基づいて対応したほうが良い結果の出る割合が高いからに他なりません。

例外を期待して、そっちを標準対応にするなど気違い沙汰だというのはそのためです。

良い朝鮮人、シナ人だっているかもしれません。いや、今でもきっといるでしょうし、過去に実在した歴史上の人物も知っています。
でも、日本人として生まれ、日本人に囲まれて暮らしているというのに、貴重な限られた時間を、シナ人、朝鮮人の「良い友人」を探すために費やすなど、ドブ川で鮭を探すに似た行為です。
ドブ川で鮭を探すことに自分は人生を賭けているのだ、誰に評価されなくともそれを実現したいのだ、というのであれば、他の日本国民に迷惑をかけないのであればお好きにどうぞとしか言えません。
が。
シナ朝鮮に関り合いを持つ、というのは、「ゴキブリを自宅で飼う」に等しい迷惑行為ですから、何があっても自分の家から逃げ出さないよう責任を持った管理体制を敷いてください。

うーん、まだ書ききれない。
続きで身体障害者など、「集団」に属するというより、遺伝的ハンデについての差別について。
これでこのシリーズは終わる予定です。


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