「運動」が宗教になっていく仕組みとその危険性

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

このブログでは、決してそれを目的としているわけではないのですが、他所のブログの記事内容についてこき下ろすだけこき下ろす記事を上げることが有ります。

それを目的としたブログではないにもかかわらず、言及せずにいられない内容について一定の共通項があるなあ、と気がついたのですが、それが表題の「運動」から「宗教」へ、教祖様の言うことを客観的に論証すること無く鵜呑みにする、ということでした。

いわゆる社会運動の類は、数が集まるとその指導者の言うことを盲信し、批判するものを排除しようとする、未熟な宗教的様相を呈することが多いのです。

過去記事でもさんざん宗教というものに過度に傾倒してしまうと、自分の信ずる宗教の教義から外れるものを否定し、甚だしくはこの世から抹殺しようとするところまで行き着く危険性について言及してきました。
故に、私は単に自分と違う意見を持っているというだけの場合、大して関心を持ちません。

しかし、自分とは違う意見を持っていると認識した際に、「違う意見を持っているが故に、自分の意見を否定しているが故に」他者を客観的論拠を伴わないひとりよがりの言いがかり、甚だしくは暴力によって攻撃する類は許してはならないのです。
なぜなら、これを放置した結果、その手のたぐいの「信者」が膨れ上がると下手すりゃ国が滅ぶからです。
人間生きてれば何がしか他人と意見の合わない事はあります。
いちいち意見の違う人の言っていることや書いていることに噛み付いてたら時間がいくらあっても足りません。

ろくでもない人間はどんな社会にでも一定数存在します。
どこぞの公園にろくでなしがタムロして、ぐちぐち愚にもつかない事を言っていたとて、別に世の中に大した悪影響は与えません。

しかし、一定の世間への発信力を伴い、発言内容を盲目的に信じるような人間が多数いるような立場の人間が、嘘八百を垂れ流したり、政治的に国家を危機に陥れるような事を愛国者のつもりで発信し、それを信者となった連中が盲目的に信じて拡散宣伝に励むとなったら、かつてのマスゴミが世論を思う様洗脳した時代のように、国の政治をも左右する流れを生みだしかねません。

インターネットの良い所はマスゴミと違って誰もが発信者となることが出来、本来のジャーナリズムの役割であるところの、一つ事柄に対して何者かが意図的に一つの方向に世論を導くことを妨害することが可能であることです。

そして、私が批判記事を書くために取り上げる記事、取り上げざるを得ないと思い、面倒だと思いながらも記事にする事柄は今のところ全てこの、「世論を某かの方向に論理的に筋の通らない内容にも関わらず持って行こうとしているもの、一種の洗脳行為に当たるもの」についてです。

WJFプロジェクトに関する記事然り、小保方騒動に絡んだねずきち氏の記事然り。

そして、これらはどちらも当初の目的、と言うか表看板は「国の為を思っての保守思想から」ということになっています。

右翼であろうと左翼であろうと、それこそ実際に他国の指示を受けての売国工作をしているとか、国の道徳、法制度、文化の根幹を破壊するような不法行為をしているのでなければ、国家政策やら文化や法制度やらに対する意見が食い違っていてもそれはそれで問題はありません。

ただ、なにか一つのことに対して意見を述べるに際して必ず守らなければならない、これを放棄するとシナ朝鮮ヒトモドキ土人と同等の輩に成り果て、そのような輩の意見がまかり通るとなったら国を滅ぼすというルールが有ります。

それが、客観的事実を論拠とせず、感情と思い込みと自らの都合で論理を無視し、シナチョン方式の「声闘」(客観的に正しいか、証拠があるか、論旨が通っているかは関係なく、とにかく喚いて相手を圧倒すればそれで勝ちという土人行為)によって己が意見をゴリ押しすることです。
「運動」に傾倒して本来の目的を見失ってしまい、某かの「目的を達成する」ために「運動」「する」はずだったのが、いつのまにやら「運動する」ために「目的」が「ある」という風に、目的がすりかわり、主語と述語がテレコとになる、と言うのは「運動」の種類を問わずよくあることです。
似たようなものには官僚が、己が役職を確保したいがために「仕事」をどんどん増やしていく、というものがあります。

どちらも「目的」がないわけではないのです。
必要もない仕事を延々と作り出す役人には、楽して自分の利権を確保したいと言う目的があります。
必要もない運動にしがみつく運動家には自分はXXのために戦う価値ある人間であると思いたいという、立派な目的があるのです。

ただ、どちらも建前としているお題目と本当の目的に関連性がないだけです。
保守だの左翼だのの「運動」の場合、「XXを◯◯にしたい」と言う目的で始まった運動が、「社会のために運動するワタシ」という状態を作り出します。

そして、その運動によってもたらされる「娯楽」状態と化した快感、「社会のために運動するワタシ」が、「◯◯」が実現すると運動が終了してしまう。

それを回避するために、目的とする状況の実現を妨害するようになるとか、目的が実現したにも関わらずそれを認めずに「まだアレが出来てないから不完全だ」とか理屈をこねて、もう必要なくなった運動を継続しようとするようになる。

かつて小林よしのり氏がミドリ十字事件の裁判が原告側の勝利となり、戦いは終わったのだから「運動」を行っていたものは家に帰れ、と呼びかけたアレが典型的です。

これは左翼運動も右翼運動も関係有りません。
更に言うなら、社会運動に限ったことでも有りません。
某かの共通の価値観を持って集団となった人間の間で、頻繁に起こる現象なのです。

そして、この手の集団に於いては「運動」そのものが価値を持ってしまい、運動の正当性を自分の価値と同一視するようになる人間が量産されやすいのです。

そうなると、運動で主張する内容が発生当初の状況から変わって必要なくなったり、実は主張する内容自体が間違っていた、というようなことが明確になっても、それを宗教的盲目さで否定するようになったりします。

なぜなら「運動」の正当性=自分の価値、自分の正当性となっていしまっているので、「運動」を否定することは則ち自らを否定することになってしまうからです。
この手の状況に陥りやすい人間というのは、自己評価が低い人間がほとんどです。

この「自己評価」は社会的に成功しているように見えるとか、実家は裕福だとか、学歴があるとか、名の通った企業に就職しているとかいうこととは関係ありません。
自分で自分を高く評価する事ができない、なにより自分の価値を認めるのに、他人に評価してもらわなければ己の存在価値を認識できないと言う精神構造を持っているが故に起きることです。

過去記事にも書きましたが、自らの幸せ=価値観を、他人の評価に委ねると、必ず不幸せになる、と言う一つの例です。
他人の評価というのは、望めば得られるというものではなく、自らの行為が他人の評価する内容と合致していた場合にのみ得られるものです。
自らが価値があると思った行為が、必ずしも他人の評価を得られるものでは有りません。
例え他人には評価されない事でも、自分が価値があると思った事を行ってそれで幸せと思えるのでなければ健全な精神を持っているとは言えないのです。
人は自らに価値がないと思って生きていく事は出来ません。
その、生きていくのに必要不可欠な自己承認を、他人の価値観に依存するということは他人の価値観の奴隷になるということです。

他人の評価を全く気にするなというのでは勿論有りません。
他人の評価を優先して自分の価値感を犠牲にし、他人の価値観に合わせてはならない、ということです。

この手の運動で、自分が参加した運動の趣旨が環境の変化によって不要になったとか、立ち上げた当初の情報では自分たちの運動は正しかったが後に根拠となった科学データが政治的に捏造、流布されたものだったと判明したので、運動は目的の反対の状況を助長するものでしかなかったと判明したとしましょう。

そういった時に、自己評価が高く、自分の価値を「たかが一つの運動」のみに置いているような人間でなければ、運動が間違っていた、当時の状況ではそれを見抜けなかった、失敗しちゃったな、後始末付けてこの運動はなしにしよう、迷惑かけた人がいたら謝ろう、であっさり運動をやめられます。
「良い教訓になったわ」と思うぐらいで自分の価値が損なわれたなどと夢思いません。

他にいくらでも「自分に価値がある」と思えるものがあるからです。
他人が全く認めなくとも「自分が」それを価値あるものと認めているから、他人が認めてくれなくても幸せ、と思える物が、沢山ある。
この、「他人が認めてくれなくても自分がいいと思えればそれでいい、それで幸せ」というところが大事なのです。

それがあるから自己評価を「他人に」毀損されないので、あっさり運動を止められるからです。
筋が通っていないと他人に否定されたからといって、それを認めたら自分まで否定されるなどとは思わない。

しかし。
これが、自己評価が低く、自らの価値を自らで決めることが出来ない人間、つまるところ自分で自分の縁とするものが他人の評価となるもの以外ない、と言う人間にとっては、他人が賞賛してくれる「運動」そのものが自分という存在の価値を担保する物となってしまっています。

故に、いくら客観的証拠を伴って論理的にその運動が間違っていると言われたところで、それを認めることが出来ない。
結果、
「運動」は「宗教」になってしまう。

「運動の趣旨」は「経典」となってしまう。

「運動の指導者」は「教祖様」になってしまう。

この「運動」なり「宗教」なりが世間一般からも認められるようなものであればそれを行なう人間の精神状態がどうであろうが問題ありません、
しかし、そうではなくなった時が問題なのです。
そして、運動そのものが「目的」であり「教義」となってしまったような「運動」が、常に変転する状況の変化に合わせて現実に対応することができるわけが有りません。なんといっても、「運動」の「教義」を否定する、非難する、疑う事は許されないのですから。
故に「宗教」と化した「運動」は、遅かれ早かれ自滅していきます。

前述した「自分の価値を他人の評価に依存する」人間が、「運動」を必死で価値あるものだと喚いても、「宗教」と化した運動からはまともな人間は出て行ってしまいますし、世間の評価も得られなくなり、「自己評価の低い人間」同士で同病相哀れむしかなくなります。

それでも、まだ仲間同士で気勢を上げることで満足していれば、それはそれで同じ趣味の仲間のサークルみたいで愉しい事だと言えなくもないのですが。

元々そういう人達の運動をやっている動機は「他人に自分を認めてほしい」が故ですから、「自分たちの運動を認めてくれない他人」を、「お前たちは間違っている、お前たちがいるせいで自分たちが認められない」と恨み出し、攻撃を始めるんですね。

これが、右翼左翼関係なく、何がしかの「運動」やら「思想」やらにはまってしまった人間が自分と違う意見を言う人間をやたらめったら攻撃する思考回路です。
勿論宗教も同じです。
だから、「運動」のたぐいは「宗教」になりやすい、と書きました。

別に「運動」したいのだったら、終わった、最早必要ない「運動目的」にこだわらず、新たに必要とされる案件に対して新たな組織をおこしてゆく、と言う方向に行けばいいのですが、この手の人たちはまず、それをしようとしません。

自分の頭で何がしか考えて動く、ということが出来ない。
それは、「新たな価値を自分で見つける」ことだからです。
そういうことができるような人であれば、「自分の価値を他人の評価に依存する人間」にはまずならないからです。

先日WJF絡み熱烈な信者氏からの、WJFプロジェクトの安倍批判に関する言い訳連絡がありまして、それがまさしくこの記事を体現したような内容でした。
WJFプロジェクトや、小保方騒動のねずきちブログにすがる人達を見ていると、単純に物を論理的客観的に考える能力が無いというのも有るでしょうが、それだけではない心の闇を感じてしまいます。

己の自己実現性の承認欲求を求めて「信者」となってしまうような人間相手に、論理だの正論だので「洗脳」をとくことは不可能です。
以前、小林よしのり氏がその著作の中で、氏の母方の叔母に当たる人が新興宗教にハマって、怪しげなツボやら何やらに金を注ぎ込み、家族にも見放されてしまった。
実の姉妹である小林氏の母親は無関心だったのに、父親が教団から義妹を連れ戻し、如何にその宗教が、教祖がでたらめかをその経典を自身で徹底的に勉強して読み込み矛盾点を一生懸命説明したが、すきを見てその叔母は教団に逃げ帰ってしまった、と言う話がありまして。
そこで、小林氏は、

「義理の兄ではだめなのだ。宗教に己の価値を預けてしまうほどの、信者の求める心の縁とはならないのだ。」(セリフはうろ覚えで正確では有りません)

と述べていたが、まったくもってその通りで、宗教にはまってしまった事を責めたり、はまってしまった宗教を客観的証拠を揃えて論理的に間違っていると説明しても、無駄なのです。

信者は、教祖や教義が客観的に正しいと思うから信じているのではなく、信じたいから信じているのです。

なぜその宗教を信じたいのかと言ったら、その宗教が、彼らの欲するもの、「あなたを必要としている、あなたは価値のある人間だ」と思わせてくれるからです。それが、その信者を食いものにするためのただの方便だとしてもです。

故に、このたぐいの信者を宗教洗脳から解き放つのには、客観的事実も論理の穴をつくことも役に立ちません。

彼らに、その教祖が唱える教義よりも強く、彼らは価値ある存在だと信じさせてくれる何がしかを提示しない限り、「宗教」と化した「運動」を、自ら手放すことは無いでしょう。

他人がこの手の洗脳をとこうと思うと、それこそオウム真理教の信者の洗脳を解くレベルの心理学者に依る脱洗脳療法が必要になってしまいます。
オウム信者レベルに洗脳されているのでなければ、何か他に代わりうる面白そうなものがあり、その教祖が世間的に見放されて、その教祖の取り巻きでいることが世間から白い目て見られるようになっていることを認識できれば目が覚めるでしょう。

かつて、ロシアのエカテリーナ二世の時代に起きたプガチョフの乱で担ぎあげられたプガチョフが最終的にはその「信者」に見限られたように。

日本という国の世論が、情緒だの感情だので現実を見ずに政局を見誤ることがないよう、微力ながらもコツコツと「脱洗脳」への方策を述べていこうと思います。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ