差別はいけないことだと思い込むあほな人々2〜不当な差別とは?

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「差別はいけないことだと思い込むあほな人々」2回めです。

「差別」自体は生物が生きていく上で必要な行為であるが、人間社会を円滑に運営するにおいて、「不当な差別」は、当然廃して行かなければなりません。

これが難しい。
そもそも、差別という行為をなくす実際の行動以前の問題として、「不当な理由」と「正当な理由」を、どのように線引きすればよいのか。
社会道徳?社会常識?
そんなもの、時代とともにいくらでも変わるのですから、規範にするわけにはいきません。

その典型例がいわゆる「人種差別」です。
かつて、ローマ法王は、世界各地へ植民侵略へ出かけた先々で出会った土民は人間か、と尋ねてくる信者に対し、「それらは人間ではない」とお墨付きを出しました。
人間ではないから、家畜同様に扱ってよい、と法王の名において保障したのです。

その結果、自分の脳味噌で物を考える能力のない、土民酋長がお墨付きをくれて、それが自分の得になるとなったら非道なことでもなんでもやらかす獣頭の西洋白人により、「土民」は人間ではない「奴隷」という名の家畜として扱われ、酸鼻を極める運命をたどることになりました。
ローマ法王がバカチン・・じゃなかった、バチカンを代表してこの見解を撤回したのは、有色人種である日本人が、大東亜戦争によって白人どもをその植民地からたたき出し、ローマ法王教皇庁の言うところの「人間ではない」有色人種の国々が次々独立した後のことです。

有色人種は動物である→人間である
えらい「常識」の変転です。

キリスト教徒にしろ、イスラム教徒にしろ、ユダヤ教徒にしろ、神は無謬だの、預言者も無謬だのと精神病患者そのものな発言を繰り返すわけですが、そのうちの一つ、キリスト教の、ローマカソリックの最高権威であるローマ法王は連中から「神の代理人」と呼ばれています。
おかしいじゃあアーりませんか、無謬のはずの「神」の代理人がなんで間違いを犯すのでしょーか。

娘を売春業者(女衒)に売る事もそうです。
かつての日本を含め、世界で親の生活のため、娘を性風俗業者に売る事は、「道徳的」なことですらあり、貧困に喘ぐ農村までわざわざ出かけて、娘に職を紹介してやる女衒は「ボランティア精神にあふれた尊い仕事」と、(少なくとも本人たちは)思っていたという事実。
宮尾登美子という、着物好きで有名な女性の小説家がいます。
私はこの人の随筆が大好きなのですが、彼女の父親は売春婦宿では有りませんが、芸者の仕込みっこを女衒から買い入れ一人前にするまで育てる置屋をやっていたそうです。
その随筆の中に、彼女の父親がまさに、自分は良い事をしているのだと微塵も疑っておらず、誇りを持って仕事をしていた、という記述が有ります。

ところが、戦後、この常識はまさに「一夜にして」というのにふさわしい激変で否定され、180度逆の、「人非人の所行」と成ってしまう。
そのあまりの変化に意気消沈した父親の姿も、宮尾氏は随筆の中で触れています。

社会道徳だの、常識だのに規範を求める事がいかに意味のない事であるか、上記二つの例からだけでも納得いただける物と思います。

さて、では、「公共での法的権利において、不当な理由により扱いに差がつくこと」の「不当」をどのように決定するのか?
それは、
科学的・歴史的・統計的に差別理由が正しいと証明できない事、すなわち「事実」に基づかないことを「理由」として差別する事を「不当」とすることです。
逆に科学的・歴史的・統計的に正しいと証明できる事実を根拠に差別することは「正当」です。
ただし、「正当な差別」とは、当たり前ですが「事実に基づいているなら、相手に何をしてもいい」と同義ではありません。

「人種」差別はイクナイ!!と喚く人や国家は多いですが、
私は、個人が「白人だから」「黒人だから」「黄人(こんな日本語ないですが、他ふたつとあわせました。)」だからという理由で差別を行うのは別に悪い事ではないと思っております。
他人の皮膚の色が違うというだけで、受け入れる事ができないというのは個人の趣味嗜好の範疇であり、それをどうこう言うのは個人の権利の侵害、思想信条の侵害だからです。
真っ当な大人であれば、「私はあなたの口の形が気に食わないので嫌いです。話しかけないで。そばにこないで。」なんて、わざわざ面と向かって相手に言ったりはしないでしょうし、そんな事をやらかせば、社会不適応者として世間から扱われる事と成り、不利益を被る事に成ります。
そんな精神障害者はよってたかってハブにしてまともに生きて行けないように実力行使をすりゃあいいのです。
こういうのは「自業自得」と言うのだと断じて反対する方もいないでしょう。

趣味嗜好が有る事は本人の自由ですが、自分の趣味思考から外れる物を好む人間を面と向かって悪様に罵ったり、馬鹿にしたりすればまともな社会生活を送れないのは当然の事です。

そのリスクを引き受ける覚悟が有るのであれば、本人の好きにすればいいのです。
趣味嗜好の話なんですから。

さて、皮膚の色が黒いという理由だけで黒人が嫌いな白人が、普段の生活において黒人の隣人に対し無礼な態度を取るわけでもなく、特に好意的に振る舞うわけでなくとも、礼儀にかなった態度で接していて、その黒人からあなたが好きだ、結婚したいと言われたとしましょう。
その際、申し出を礼儀正しく断ったのに、しつこく理由を根掘り葉掘り聞いて、「私は黒人が嫌いなので結婚する気はありません」
言わされたとして。
「差別だー!」

と喚くなんてのは気違い沙汰です。

相手は、黒人が嫌いという嗜好を持っているだけなのです。
相手の好みに自分が合っていないから断られたというのに、それをまるで相手が犯罪でも犯したかのように責め立てるなど、お前は一体何様だという話です。
相手の趣味に、差別主義者のレッテルを貼って変更を迫るような脅迫行為の方が、遥かに問題です。
もちろん、お前が黒人だからと断った相手を、なんて偏狭な趣味の持ち主だ、と思ったってそれはそれで告白した方の自由です。
黒人だからと振られた、と言いふらしたっていいと思います。
(現実の世界では差別主義者のレッテルを貼られて、振った方が不利益を被る可能性がありますから、本当ではないのにこんな話を吹聴したら訴えられる可能性すら有りますが)

彼に告白したの!
でも、彼、もっと細い女の子がいいんだって。
髪が真っ黒でストレートロングの子がいいんだって。

こういう理由で振られたのなんのと、恋愛ごっこをやってるのは大勢いると思いますが、何か問題が?
次元は同じです。
告白してきた相手より、告白された自分のほうが優位に立っているのだからと勘違いして、社交儀礼の一つを繰り出すことのできないコミュ障バカはこの手の本音をいったりますよね。
もっとも、告白したほうの馬鹿も、社交辞令で断られたらそれでおとなしく引き下がっとけばいいのに、どうして私ではダメなの、納得できる理由を言って!!
な〜んてしつこく取りすがるから泥沼化するんだけど。

話がわきにそれ出したので無理やり戻します。

では、問題になる差別とは?
前の例で言うなら、告白された白人が、隣人と同僚でもあり、その際に、隣人が黒人であるという理由から、職場で不利益を被るよう仕掛けるとか、不当に昇進の機会を奪うとか、そういう自らの嗜好のみが理由で相手に不利益を及ぼす行為、これが問題になる差別でしょう。

ここでは、あくまで黒人であるという事は肌の色以外に何ら白人と差はない、という「仮定(あり得ない)」で話を進めています。
(当然、現実世界ではそんな単純にものごとは運びません。実験室での検証ではないんですから。)

黒人白人の例を出したのは、この世に数多有る、「社会的に問題が発生する差別」の中から、個人が持つ正当な権利としての差別、社会的に問題となる差別の二つをわかり易く分別したかったからです。
このうち前者の差別に属する物については、変えようとする事自体無意味どころか逆に犯罪にすらなりうる行為であると認識いただけたと思います。

しかし、後者の社会的に問題となる差別、これは、差別される側に前述した差別の根拠が有る場合、当然現実の社会的不利益となります。

これは許容される事であるのか無いのか。

私の結論はこれまでの記述を見ればおわかりいただけるように、差別の理由となる根拠が客観的事実であるのなら、その差別は正当にして必要である、というものです。

これが個人対象の意見であるのであれば賛同者は多いでしょうが、特定の集団に本人の能力、希望によらず所属している人間に対し、該当集団としての「事実に基づく評価」を当てはめて差別することに対する賛同者は日本のみならず世界を見渡しても「建前上は」多くありません。
建前上は反対、と言いましたが、では本音と現実はというと、もちろんほとんどの人間が賛同し、賛同者として行動しています。(差別しています)
人種、民族、係累に犯罪者や障碍者がいるからとの理由での差別は、現在の世界の趨勢としては、現実はどう有れ、建前上は法的に許容されないという姿勢をとっている国が大半です。
どういう事かわかり易く言うなら、例えばアメリカにおいて。

「黒人の犯罪率が馬鹿みたいに高く、黒人の知的能力が馬鹿みたいに低く、黒人の暴力的行為の発生率が統計的にどれだけ高くとも、それを理由に差別する事は許されない」

ということになっています。

なぜなら、黒人は、
「黒人が統計的に貧しく、教育が不足し、その結果知的レベルが低く、犯罪率が多いのは、歴史的要因から(つまり、鬼畜白人によって奴隷としてアフリカから連れて来られたから)不利な立場から出発させられ、現実の黒人の知的能力が低いのは貧乏な環境におかれ続けて満足な教育を受けられなかったせいで、彼らの人種的能力に由来するのではなく、犯罪率が高いのも貧乏なせいで、遺伝的に犯罪を好むわけではないし、黒人の犯罪率が高いのも環境のせいで黒人が遺伝的に劣勢なわけではないのだから人種で差別するのは間違いだ。我々アメリカ人は結果の平等を求める」

という「建前」なわけです。
その結果、学力が白人より劣る黒人や、少数民族を優先的に大学に入学させるなどというあほな政策をやらかして逆差別だと批判される間抜けをやっています。

実際に遺伝的に能力の差がないなどという事はあり得ない話ですが、(アメリカという基地外国では、各人種における知能レベルやIQの統計比較研究を、純粋に科学的見地から行ったにもかかわらず、それを人種差別主義に基づく研究だと断じて研究者を糾弾し、研究成果の発表を闇に葬り、研究者へのテロ行為にまで及ぶ有様なのです。まったくもって基地外の巣窟です。)少なくとも知的能力について差があるとしても黒人と白人で、黒人の身体能力(優)と白人の身体能力(劣)程に差はないので、まあおいとくとして。

ちなみに、現代人間社会で知的能力の人種、民族ごとの能力差を科学的に検証、実証することがなぜ禁忌になってしまっているのかというと、知的能力がすなわち人間社会で富を生むことのできる「絶対指標」であるからです。
黒人の身体能力が他の人種とかけ離れて優れていることを証明する研究結果はゴマンとありますが、スポーツ医学の名の下堂々とその成果を発表しています。
そしてその研究結果に基づいてスポーツ界に於いて他の人種を駆逐して黒人が活躍することを「差別だ!」などという事はほとんどありません。
せいぜい、アマチュアスポーツの世界においては多少あるかも、という程度で。

身体的能力が高いからといって人間社会で権力者となれるような成功をつかむことはできないし、どうでもいい指標でしかないが、知的能力に人種的優劣があるとなったら、「劣等人種」が科学的に証明されて、人種差別に「科学的根拠」を与えてしまう。

故に禁忌扱いされているわけです。

禁忌にしたからって現実が変わるわけではないし、多少知的能力に人種・民族間で差異があったとした所で、生まれ持った頭脳の性能なんぞ、教育の有無でガラリと変わってしまうのだから現実には「人種・民族ごとに知的能力に明確な統計上の遺伝的優劣がある」といってそれがすなわち「実際に知的能力が高い」とはならないんですけどね。

シェパードが優秀な警察犬となる素質を遺伝的に持っているからといって、なんの訓練もしないで成長したらそれで警察犬になれるワケがないのと同じで。
訓練なしのシェパードと、子犬の頃から訓練を積んだ雑種でどちらが現実に警察犬として役に立つかと言ったら、訓練を積んだ雑種。
訓練を積んだシェパードと、訓練を積んだ雑種ではもちろんシェパードが勝つでしょうが、それは持って生まれた現実の能力差なのだから差別だと叫んだからといってその事実が覆るわけではない。
遺伝的に優れた能力を持った相手となんとしても同じ土俵で勝負したい(しなければならない)のであれば、遺伝以外の部分で努力と工夫を重ね、勝つしかない、というだけです。
不利な戦いはしたくないというのであれば、相手が自分より劣る(自分のほうが優位に立てる)能力で勝負する。
自然界の数多の進化はこうして起こったのであり、これは人間の都合による正義がどうのという思想の入り込む余地のない自然界の法則で、これを
シャベツニダ!!!
などと火病を起こして認めなければ、どんどん人種、民族として繁栄の逆走をすることになります。
それが嫌なら、不利な身体的特徴を遺伝的に改善していくか、それが間に合わない期間は何らかの他の手段で勝ちに行くしかありません。

かつて、体格的に劣り、近代兵器の能力で劣る白人に、戦闘技術の洗練、兵士の練度を高めるための過酷な訓練をこなすことで日本人が世界屈指の軍事大国となり、屈辱の不平等条約を覆したようにです。

前述のアメリカの黒人の置かれた環境は、現実をそのまま記述したものですが、彼らが如何にして現状の彼らになったか、などというのは、現状の改善のための対策を練る担当者にとっては意味があることでしょうが、それがわかったからと言って、現実世界で今現在知的能力の低い人間がレベルアップするわけではありませんし、犯罪を繰り返す性向がいきなり矯正されたりもしません。

したがって、例えば人を雇う側からしたら、現実に、統計的に白人の方が黒人より、環境のせいだろうが何だろうが、犯罪をおこす確率が低く、教育程度も高いとなったら、信用面、経済面で白人を選ぶのは当然の話です。
慈善事業やってるんじゃないんですから。
なのに、それを差別であると糾弾する。
正当な理由のある根拠に基づき対象を選別することを正しい差別とするなら、選別の基準と逆の対象を選べと言っている、これは逆差別です。
もちろん、現実問題として国家のセーフティネットとして貧困層に対する支援をするというのは過ちではないのですが、福祉にぶら下がって自らの能力を上げる努力を怠ったままでは何時まで経ってもセーフティネットという「施し」を受ける立場から脱することはできません。
なにより、セーフティネットなどない時代から過酷な競争を生き抜いて現在に至る、優位に立っている側の人間からすれば、自分たちの施しでようやく成り上がってきたような連中を一段下に見るのは当然のことです。
人格の高潔性が〜などというのは脇に置くとしてですが。
事実を指摘されて悔しいなら、グダグダ言わずに「自力」で同じ所に這い上がれというのです。

「自力」

自分の時間 (知的生きかた文庫)

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これを持って自らの置かれた環境を変える努力をし、結果を出さない限りこの世での尊敬を受けることはありえないのです。

白人にだって犯罪者や知的能力の低いものはいるのに、黒人(朝鮮人でも中国人でもなんでもいいんですが)だけが差別される!

んなことはありません。
どんな社会でも、どんな集団でも、人と人のつながりは差別の連鎖でできているのです。
差別のヒエラルキーの一番下にいる者が最初に差別され、その次の階層にいる者が次に差別される、それだけのことです。
一番最初に差別されるのが嫌なら、その要因を取り除く以外に手はないのです。
差別されるのが嫌だ、と喚いた所で、表面上の「差別」は歪んだ法規制によって一見なくなるようにみえるかもしれませんが、原因がなくならない限り必ず抜け道はできますし、第一人の心の中を法で変えることなど出来るはずもありません。
差別が嫌なら、差別される原因を自分から、自分が属する集団からなくすこと、それどころか他者からの尊敬を受けるところまで持っていく以外に、真の解決はないのです。

最初にふるい落とされる立場が嫌だというのであれば、それを改善するために必要なのは、デモを起こして自分たちは何も変わらないくせに待遇だけを改めろと理不尽な要求をすることではなく、まず自らの現状を差別されない状態に改善し、その「事実」をもって自らに課せられる差別が不当であると主張することです。
「不当」な差別をされているのであればそれを糾弾することは正当な権利ですが、「不当ではない」差別をうけて、それが事実に基づく差別であるにもかかわらずそれが気に食わないと火病を起こした所で現実世界は変わりません。
法で規制したところでどうにもなりはしません。
現実が見えていないあほな法律を律儀に守っていたら、こっちの生活が脅かされるとなったらそんな法律誰が守るでしょう。
いくら法律で差別イクナイ!と言ったところで、一向に人種差別が無くならない欧米諸国を見れば、差別を禁止する法律なんてものは、差別される原因をなくしてからでなければ役に立たないことぐらい、まともな脳みそがあればわかるはずです。
差別される原因がないにもかかわらず、理不尽に自分を優位に立たせたいがために差別する人間がいるのなら、そこで初めてその不当な差別を行うアホを糾弾できるのです。
法律で強要などされずとも、自らが望むような「差別」をされるよう、相手ではなく自分が変わることがまず最初に必要なことなのです。

まだまだ続きます。


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