玄奘西域記3 神と信仰と宗教と布教 救ってやるから有り難いと思えというはた迷惑なゴリ押し

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大変遅くなりましたが・・・旧暦の正月のご挨拶という事で・・
あけましておめでとうございます。

本年もつたないブログにお運びいただき、ありがとうございます。

昨年の大晦日にめでたく30000ビューを達成していて驚きました。

しかも、ちょうど100回目の更新だった事に、本日記事を更新しようとして気がつきました。

アクセス解析やらはまるでやっていないので、どの記事に人気があるとかは、わからないのですが。
ブログを開設して1年半くらいに成りますが、なんと言っても途中ほったらかしたりして記事が一個も無い月があったりで、実質1年に満たないズボラブログです。
今年の抱負としては、平均週2回更新をせめて3回更新、可能であれば毎日更新にー!!
・・いつかは。

ご挨拶と新年の抱負でございました。

玄奘シリーズ第三弾です。

お訪ねいただきました皆様方、この回だけでもお楽しみいただけますようがんばって書きますが、よろしければ初回からご覧いただければ。
どれもとんでもなく長いので、お時間のあるときに・・。

さて。本編に入る前に、ちょっとばかりお断りを。

私は、この作品について、まるで関係のない事をこじつけで絡めて記載しているとは、思ってはいません。
が、もしかしたら作者の諏訪緑さんは、

「私の意図したのは平和の大切さを訴える事だ!大東亜戦争の否定だ!戦争反対!」

という意図で描かれた物語だったのかもしれず、そうだとしたら一読者としては幻滅なのですが、これだけの深い物語を描ききる方が、お花畑単純馬鹿の

「戦争反対と叫べば戦争無くなる!」

論者とは到底思えませんので先を続けます。

だいたい、読者が自分の作品を読んで自分の意図を汲み取ってくれないのがいやらなら、表現者である事など止めればいい。
読者が作者の描いた物語に込められたメッセージを作者が意図した通りに受け止める事ができないのは読者が未熟であるのが原因の事もあれば、作者が未熟で読者が受け止められるよう描く事ができない事もある。
曲解されるのがいやだというのであれば、作品を世に問う事などしなければよろしい。

とはいえ、このブログの内容は、私、まるてつの個人的一読者としての本の感想と、本の内容に絡めての私個人の意見を記述した物で、作者の意図は全く関係ない事であるとご承知置きくださるようお願い申し上げます。
もっとも、一読書人としていわせてもらうのなら、作者が意図した通りにしか読み手が受け取る事ができない物語なんて、はっきり言って駄作以外の何者でもないと思うのですが。
作者の主題自体は確実に読み手に伝わる、ただし、物語の細かい描写から、作者も意図しないような情景が、読み手の経験と相まって立ち上がるような物語こそ、傑作と呼ぶのだと思います。

今回のサブタイトルにありますように、今回玄奘西域記から取り出す場面のテーマは「宗教」とはなにか、という事と、宗教を布教しようという連中の思考回路についてです。

この世には数多の宗教が存在し、信者が、ことあるごとに信者以外の人間を信者としようと蠢いております。
もちろん、ごく少数ではあれども、人間社会の役に立つ、高潔な宗教家というのも居るのだろうとは思いますが、まあとりあえず宗教家などという輩はとりあえず性犯罪者か金の亡者か詐欺師の可能性大、ぐらいに思っとくのが安全です。
この連中を、私は他人の不幸を願う輩として忌み嫌っているのです。
なぜ宗教家連中が不幸を願うのかと言ったら、不幸に見舞われて心身共に弱っている人間の方が取り入り易いからです。
他人の弱みに付け込んで、金儲けをやらかそうというのだから人外外道と言うべき物でありましょう。
不幸を願うっていうか、詐欺師っていうか、時間泥棒っていうか、気違いっていうか、税金泥棒っていうか、犯罪者っていうか・・。
ま、全部当てはまりますわな。

この日本国では、信教の自由が憲法によって保証されております。
よって、個人が他人に迷惑をかけない限り、また日本の法に触れるような振る舞いを行わない限りはどんな宗教にはまろうがそれは好きにすればよろしかろうと思っております。

しかし、あいつ等は何だって、頼みもしないのに押し付けがましく「救ってやる」などと抜かしながら、気違いの分際で他人様の貴重な時間を断りも無く泥棒しようと、蹴り倒して罵倒されてもたかってくるのでありましょうか!?

そもそも、宗教なんぞにすがらない事には物事の理を悟る事も、自分自身の精神の健康も保てないなんていうのは神経薄弱者というより他に無いと思うのだけれど。

三輪明宏さんの、戦争に対する偏ったサヨク思想や、「私は天草四郎の生まれ変わり」とかいうトンデモ自己紹介はともかく、他の大抵の事は私と意見が一致するので、彼の随筆集を何冊か持っており、まかり間違ってもさばいて電子化する気になれない宝物本も何冊かあるのですが、彼の宗教観が私と全く一致するのです。

要約するのであれば、宗教というのはより良く生きる為の方法論であり、例えていうならビジネス本のノウハウの方式にあたると。
勝間勝代方式もあれば、苫米地英人方式もある。
別に本や、それを提唱する著者が尊いのではない。
どれを選んだって目的は一緒、「よりよく生きるため」
あいつはカツマーだから殺せ、なんていう事には成らないのに事が宗教となるといきなり宗派が違う、提唱者が違うと殺し合いに成るなんてのはアホの骨頂だと。

彼は、本物の宗教家と偽物を見分ける、唯一にして絶対で、簡単な方法を述べています。
どんな御託を並べようと、宗教活動でカネを要求する輩は偽物。
カネを要求せずに無償で人の為に尽くすのであれば、本物(役に立つ)の宗教の可能性がある。
可能性、であって、かならず、というわけではありませんが。

このブログの中で何度も馬鹿に宗教は気違いに刃物と一緒だと書いてきましたが、その理由がこれです。
馬鹿には、宗教と神との区別などつきません。
一神教多神教も、人間が「神」という概念を自分たちで作り上げた際、理解し易い方法で表しただけで、単に見え方が違うだけで本質は同じです。
原始人相手に、コンピュータの「OS」という概念が「神」、「Windows」「Linux」「MAC OS
などが「宗教」と言ったところで何の事やらわからないのと同じレベルで、馬鹿には抽象論など理解できません。
その結果、自分の思い込み以外の事を主張する連中をどうにかしてやろうという衝動に駆られたら、自分の信ずる宗教に照らし合わせて相手を「異端」と断定し、よってたかって「神に反する物だから何をしてもいい」という理屈で自分の良心を麻痺させて、獣よろしく虐殺にいそしむ、と言う歴史を繰り返して来たのが、日本や、チベットブータンなどの一部特殊な地域を抜かした大概の民族の歴史なのです。

だから、「宗教は麻薬」

というのは実に的確に宗教という物を表しています。
他でも言っている通り、正確には「宗教は、馬鹿には麻薬にしから成らない」が正しいと思いますが。

よく、外国人が日本人の宗教観をして節操がないだのとアホな非難をしますが、節操がないのはお前等の、宗教という物に対する過大な特権意識であって、日本人はこの世で数少ない宗教とは何かを、誰に教わる事無く理解し、適切な扱い方を心得ている、お前等とは比較に成らない雲の上の頭のいい民族であり、低能のお前等が日本人様の宗教観にもの申すなぞ、実際3000年は早いと言ってやりましょう。

宗教は、いいとこ取りするのが正しいのです。
教祖が無謬であるなどと、脳たりんの妄想でしかありません。
宗教家と神とはイコールなどではないし、物理的な教典が尊いなどというのもへそが茶を沸かす気違い論理です。
が、その気違い論理を、大の大人が本気で主張しているのが、イスラムユダヤキリスト教という、世界3大気違い宗教です。
もちろんヒンズー教もろくでもない宗教ではありますが、教祖が無謬だの、聖典を破った奴は殺さねば成らないだのというとこまで言ってません。(現実はどうあれ)
あの宗教が気違いなのは、宗教にかこつけて自分がうまい汁をすすり続けるため、特権階級が下層階級を差別する事を神の意思だと詐称して、自らの人非人な振る舞いを恬として恥じないことです。

よって、教典という物は疑って批判精神を持って自らの経験と照らし合わせて読み、これはいいなと思うとこだけつまみ食いして、自分の行いを正す縁とすればそれでいいのです。

だから、仏教徒神道で、キリスト教も、それからそれから。。。というのは大変知的かつ理にかなった宗教とのつきあい方です。

こういう考えでガキンチョの頃から武装した私のような人間は、似非宗教家には全くうまみのないエサでしかないでしょうが、それとわかるまで、何度となく押し付けがましく自分の宗教に加入させようとするあの情熱。

教祖は結局カネを巻き上げるのが目的なわけですから、しつこいのはわかるのですが、末端の連中の、巻き上げられる側の連中の、あの勧誘したい情熱はどっからくるのかが、この、玄奘西域記を読むまで、漠然としか理解できませんでした。

だいたい、わかっているんだけど、なんかすかっと言い表せない。
そんな感じだったのです。

この本の、以下の下りを読んだ時、
「これだよ、私が常々感じていた事は!!!!」
と叫んでしまいました。
では、ようやく本の内容紹介始まります!
まずは状況説明から。

プラジュニャーカラはインドのナーランダー大学の卒業生の僧で、仏教を広めるべく、突厥など諸国を回って布教を行っている際、玄奘一行と知り合います。
インチキでも何でもいいから仏教をすごい宗教だと思わせて、信者を増やし、大衆化する事で人を救う事ができる、というプラジュニャーカラの俗っぽさに、玄奘は反発します。

その後、彼と玄奘一行は旅の途中で再び出会うのですが、それはプラジュニャーカラが、支那の王子が宝を埋めてなくなった跡地から宝物を掘り出そうとすると地震が起きる、仏教寺の僧たちに、支那の高僧がお経を読めば、地震が起きずに宝物が掘り出せると唆して勝手に紹介料を取った結果と・・。

しかも、その寺は孤児院をかねていたのですが、その孤児院で育った子供たちが長じて山賊と成っており、地震が起きたから宝を掘り出そうとしていると察知して横取りすべくやって来た!

長捷さんは山賊に捕まった!

坊さんたちと、玄奘、ハザク、プラジュニャーカラは寺の牢屋に入れられた!

山賊:「宝が掘り出せなければお前等全員皆殺しだ!」

事態はよくわからないけど、山賊に囲まれてとにかく穴に向かって無心にお経を読む長捷さん。

ハザク:「宝が埋まってるってのは伝説なんだろ?長捷さんのお経で地震が収まったとして、宝が無かったらどうなるんだ?」

プラジュニャーカラはびっくりした!
玄奘は怒った!

プラジュニャーカラは、泣く泣く、インチキで稼いだカネを瓶に入れて、牢屋を抜け出し、こっそり穴の中に置いてきます。
その際、山賊に囲まれてもいつものニコニコ顔のまま、無心にお経を読む長捷さんをみて感ずる物があったプラジュニャーカラ、牢屋に戻って玄奘に、仏教を広めるため、長捷さんを教祖に貸してくれと申し出ます。

玄奘は怒った!

玄奘:「兄さんを金儲けの道具にする気だな!」

「兄が弱い身体で旅をしているのは取経のためだ!そんな汚らわしい目的のためじゃないぞ!」

唯識3年倶舎裏8年天竺の仏教大学に居た頃仏典のほとんどは勉強しました。
これはこれで優れた仏典だとは思いますけどね
でも一般大衆がこんななぞなぞみたいなお経を聞いて喜ぶと思います?
一部のインテリ僧が自分の哲学深めて喜ぶだけじゃありませんか?
こむずかしい教理をひたすら唱えるだけじゃ一般大衆は救えません
今現実に尊い念仏より私のカネの方が確実に皆さんの命を救えるように
多くの人を救うには教理を演出し大衆化する必要があります
私は既にその土地その土地に定着している古い信仰・呪術・占い・迷信の類いに
仏教の教えを取り混ぜて行くという方法をとっています」
「それでクンドゥスで火渡りをしたりお守りを売ったり?」

「さよう だが見た目で宗教的神秘性に欠けている物がいくら大衆化を進めても限界がありましてな」
「それで兄さんを?」
「そうなんですよ!兄上ほどの風貌と私の演出が手を組めば仏教を広めるのに国を利用する事も可能です」
「まずは各国の王たちを啓蒙します。信仰を持った王は仏教を国中に奨励します。
そこで私が大衆化された仏教を浸透させるんです。
何せ国がバックですから桁違いに多くの人びとに布教できます。
やがてこの世は一人残らず仏教徒・・この世は居ながらに極楽浄土に成るでしょう。
兄上を貸してくれというのは金のためじゃありません。
仏教を大衆にあまねく広めこの世を浄化するため・・ご協力願えましょうな」

ここまできて、黙ってたハザク、大笑い。

「いうに事欠いて浄化だあ?」
「はっきり言ったらどうだ、え?
国王や大衆とやらに詐欺を詐欺だと思われないよう長捷さんのような立派な看板が必要なんだってな」
「広める広めるって一体誰のためなんだか」

「だから!それは大衆のために・・_」
「大衆って何だよ 誰も頼んじゃいないぜ 押し付けがましい奴だな」
「ああわかったよ あんた自分のために広めたいんだ」
「俺は常々宗教家にはある種の征服欲を感じていたよ。
政治家は土地を征服したがるが宗教家は?
人心を征服したいんじゃないのか?
あんた自分の教えが優れてるって世の中の人に認めさせたいだけなんじゃないのか?」

ふぁびょるプレジュニャーカラを尻目に玄奘はいいます

「どっちにしても 兄さんがあんたのいうような大衆化に協力するとは思えない
俺も・・宗教って地道で・・そんな革命まがいの物と思えない―もっとー
もっと・・苦しんでる一厘一人の助けになりたいと願うもの・・なんじゃないかな」

それに答えてハザクも

「だな。長捷さんは宗教家というより芸術家のようだ。いや芸術品かな。
自然で自由で無理が無い。
お前等ハンパ者のように迷いや欲が感じられない あの人はよく磨かれた珠のようだ。
おまえなんかにどうこうできる人じゃないよ」

どうでしょう。

いわゆる宗教家、という者に対する、日本人一般が感じているうさんくささ、軽蔑の思いをここまですっきりと解き明かした文章は他に思い当たりません。

そして、本当の「宗教」とは何か、ということも。

ちなみに、この盗賊と宝物騒動、言葉も通じない山賊の前で無心にお経を読む長捷さんの徳に打たれて、山賊どもは改心するのですが、それに感動したやはり言葉の通じない僧たちに、長捷さん、通訳もしてないのに、「あの子達に「そうありたい」という気持があったからですよ」というのです。
言葉の通じない僧達、その言葉を聞いて、ははー、と地にひれ伏します・・。

本物の宗教家、というのはこういう人のことを言うのだなあとしみじみ思う次第。

そして、プラジュニャーカラを徳の部分をすっ飛ばして現代によみがえらせたようなのが、幸福の科学の教祖あたりじゃないですかね。

これで玄奘シリーズ3回目は終了です。
本当はもっともっと書きたい事があるのですが、一番の大物エピソードで一回切りたいと思います。

年末からこっち、書きたいネタがたまりにたまっているのですが、なにぶん体調もあまりよろしくなく(泣)
年末年始の暴飲暴食がたたっているので自業自得なんですが。

玄奘シリーズ終了したら、安倍首相絡みで、すごく面白い、苫米地英人氏の、「洗脳支配」を書きたいと思います。
2008年に出版された本なんですが、今から読み返すと笑えるんですなあこれが!!

なんとか、この週末までにはUP!

では、本年もどうぞよろしくお願いいたします。_O_(ぺこり)


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