地球道草アンダンテ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ

「お前は古い本の事ばかり書く」とお叱りにならないでいただきたい。
本の価値はどこぞの古本屋出なければ出版年数によって決まるのではなく、その内容によって決まるのである。

この本は、数年前・・2008年かな?連載が終了したのだが、連載開始から半分くらいまでは単行本となったのに、残り半分ほどは単行本貸されずに放置されている悲しい本なのだ。

本屋で単行本を見かけて購入、ファンになり、その後ずっと掲載誌のFlowersを、この連載が読みたいが為に購入していたのだが、
小学館と来たら・・・!!!

単行本化されるまでの時間を待ちきれず、この作品部分だけを切り取っておいたのはいいのだが、全てではない。
ああ、くやしい。

このエッセイ漫画は、実在するバンドの一員でもあり、漫画家でもある大竹サラ氏の、日常生活の細々をネタにしたエッセイなのだが、バンドが主に海外での方が有名になっている事もあり外国での話題が多い。

オカルト話あり、食べ物の話あり、(またかおまえは、と言わないでください)フランスで名物のクレープを注文したら出てくるのに4時間かかったとか、フランスの廊下の電気が数分で勝手に消えるようになっているとか、ハイテク日本人のくせにフランスで手を触れずに水が出る蛇口に驚いたら、足でレバーを操作するのだったとか・・。

作者の目のつけどころと、独特の語り口が楽しくて、読んでいただければファンになる事請け合い。
私は本当にこの作品が大好きだし、これからも小学館に残りの単行本化を働きかけて行く所存である。

が、ここからが本題。
購入してかなりしてから気がついたのだが、あとがきの文章に多分に引っかかったのである。

引用が多くなるが、お許し願いたい。

略〜地球と言う惑星が、悠久の時を超えて育んで来たこの壮大で美しい大自然の中にいると、ふだん当たり前のように存在している、「国」と言う単位でくくられた世界観の希薄さを、感じずにはいられない。国境と言う、人間の事情によって後天的にもたらされた境界線に、今一体どんないみがあるのだろうか。


・・・わたしは、この手の、「地球市民」とか言うお花畑が大嫌いなのである。
もっとも、この人の場合、微妙に私の大嫌いなお花畑とは一線を画していると思いたいが、はっきり言って髪の毛一筋、と言ったところか。

大自然の中で、その美しさ、偉大さに、地球と言う惑星の、自然の営みに心うたれ、愚かな人間の諍いや、人間が決めたルールがくだらない物に感じられる事自体は否定するつもりは無い。
私も全く持って同感である。
が、人間の手の届かない場所である「大自然の営み」と、人間と言う、「自然の一部の動物」が作り出した生きて行く上での「動物習性」の蓄積の結果である「社会」を一緒に並べてみても意味が無かろう。

人間の作り出した社会は、地球上の「自然」とは別物だと、キリスト教的思い上がりで考える人現が多くてうんざりするが、どっこい、人間もその他の動物と同じく、ただの、地球の自然環境の一部でしかない。
どんな意味があるのかって言ったら、「人間」と言う動物は、「国境」と言う名の「縄張り」をつくり、その中で仲間同士が暮らす習性がある、で終わりである。

同じような習性を持つ、ライオンだの、オオカミだのの「縄張り」が、生物としてのレベルが違う人間様には無意味であっても、当事者である動物たちに取ってはそれを置かしては生きて行けない意味ある物であるのと同様に、人間である限り「国境」の意味を無意味にする事など出来はしない。

もちろん、「ただの人間」から「仙人」にでも進化すれば、人間にとってのライオンの縄張りよろしく、人間の国境等無意味な物にする事は可能である。


あの頃の懐かしい風。空気が澄んでいて、木々や山々に勢いのあるオーストラリアの土地には、あのころのにおいが、まだ残っていたのだ。思えばあのときにはじめてわたしは、私の故郷は日本と言う国ではなく、この地球と言う惑星全体なのだと、実感したのかもしれない

・・・まあ、「故郷」の範囲をどこまで広げるかは、自分がどう考えるかではなく、「あなたの故郷はどこですか」と聞いてくる相手が何者かによるからなあ。

日本人が「あなたの故郷はどこですか」と日本人相手に聞いてるのに、「私の故郷は地球です」
ばかか。
こんな会話をジョークでなくやらかした日には、精神病患者認定されることうけ合いである。

「あなたの故郷はどこですか♪」
「私の故郷は地球です♫」

という受け答えをするべき相手は、地球外生命体が相手の場合だけである。
現在では、地球人は、地球外生命体とのおつきあいは全くないわけで、そんな台詞は意味が無い。
自分が、自分の故郷と感じる事のできる場所は自分が決める事はできる。
が、人間社会に置いて、人間の言葉で「故郷」とは、「生まれ育った場所」のことである。


それぞれの国には、特有の文化がある。うつくしい芸術作品や、宗教観、哲学、生活習慣等、各々の文化圏で育まれたそうした物たちは、決してないがしろにされるべきではない。しかし、それとて、惑星地球に生きる我々が、たまたま生まれ落ちたその土地の、自然環境や生活環境が発端となって発展した物に過ぎない。


・・これは看過できない。
たまたま?
過ぎない?

文化も芸術も、土地の自然環境が影響しないとは言わないが、自然環境があったら何の努力も意志もなく、黴やキノコのように生えてくるわけ無いだろう。
文化芸術を生み出した人たちへの立派な侮辱である。

略〜今、山の山頂に住む人が、実は海のそばに生まれ落ちていたかもしれないと言う可能性は誰にでも平等にあり、従って、人間の順応性は、無限の可能性に満ちているようにもおもえる。


悲しい話ですが、現実の世界では何かひとつの可能性を選び取る事で結果が確定するのであり、山の上に生まれた人は海で生まれる可能性を、山野上で生まれてからも保持するわけではありません。
自分のおかあさんが、現在の貧乏人の男の代わりに金持ちの男を捕まえていた「可能性」はあったかもしれないけれど、現実には捕まえられず、一家は貧乏。でも、わたしは、母さんが独身時代付き合いのあった現在金持ちの男の娘になっていたかもしれないのだから、カネよこせ、と言う権利がある!
・・・朝鮮人みたいな事言わんでください。全然関係ないから。


だから人間は、どこに生まれたとしても、生まれてからどこに移動してもいいのだ。自分に本当に合っている土地が、生まれ落ちたその場所であるとは限らないのだから


これは全く話になりません。
仮に「人間の順応性は、無限の可能性に満ちて」いたとして、だからどこにでも移動していいなんて理由にはならないのですよ。
入国審査も受けずに他国に入国するのは犯罪です。
自分の生まれた国が、自分にとって心地のいい国ではないと言う事はあるでしょうが、国を捨てて他で暮らしたいと望んだとしても、相手に国があなたを受けて入れてくれるかどうかは、相手が判断する事で、あなたが「当然の権利」として要求できる事ではありません。あしからず。


日本人、アメリカ人〜略そうしたカテゴリーを大切に感じ、誇りに思う人は、それはそれでいい。しかしわたしには、そもそもそうした自覚が全くない。わたしは、地球に生まれ落ちた一個の生命体であって、それ以外の何者でもない。


あなたが、国籍による人間のカテゴライズに価値を感じないのは自由です。
別にあなたに限らず、地球上において生命を持つ物全てが、「地球に生まれ落ちた一個の生命体」であることは誰も異議を唱えません。

が、あいにくと、人間である限りは、生まれ落ちた場所によって、また、生んだ両親の国籍によって自分の国籍も決まり、あなたが私はそんなの関係ないと言ったところで、それが意味を持つのはあなたの中でだけです。
まー、わたしは地球の生命体、それだけで日本人とか、国籍なんて!と言うならそれでもいいのですが、そのかわり、国籍を持つ「人間」として生活する権利は放棄していただきましょうか。
海外旅行に等行けません。人間ではないんだから、文明の利器は使うな。
・・・でも、海外に仕事へ行き、人間様の作ったおいしい食事が大好きなんでしょ?

だから私は、はじめての土地で道の文化に遭遇しても、それを異文化だとは感じない。クリスチャンじゃないけれどクリスマスを祝うし、ユダヤ人では無いけれどベーグルパンガス器だし〜略。地球に展開しているあらゆる文化的産物もまた大自然と同様に、地球や地球を取り巻く宇宙というもののさまざまな側面に育まれた結果と過程であり、この惑星に生きる物たちの為に等しく用意され、誰もが自由に、感謝と尊敬の念を持って、親しく堪能する事の許されている贈り物だと思っているから。


私は文化と言うのは互いに影響を与え合って変化発展して行く生き物の一種だと思っているので、
別にこれは否定しないが、どーも地球市民臭さが・・

まあ、ここまで突っ込みどころ満載な「あとがき」だったのですが、最近、例の尖閣諸島がらみで、
この方のTwwiterのTLに、かの有名な「蒼井そら」のtweetリツイートされてて。
それが、

「中国人のすべてが暴動を支持しているわけではない」という、例の、使い古された破綻論理。
暴動を支持しない中国人がいたら、実際やらかした暴動という名の犯罪行為は責められるべきではないのか?!

甘ったれんのもたいがいにして欲しい。
やらかした事の責任は取らなきゃならんのだよ。
                                                                 
「中国人の全員が暴動を支持している訳ではない」
「韓国人のすべてが反日な訳ではない」

この手の台詞には本当にうんざりさせられる。


私に、このような台詞を誰かはいてみてほしいと思うのだ。
そうしたらきっと以下の台詞を言ってやる

「で?」

まず、これだけ言う。
ここで、頭がお花畑の馬鹿者は、
「そうだね、全員が悪い人じゃないよね」
と言うとんでもない台詞を期待している。
まずはそんなあほな期待を木っ端みじんだ!

「で?だから?」

「私は中国韓国人のほとんどがろくでなしの民度の低い土人、日本に絶対に入れてはいけないと言っているだけで、中国韓国人に一人もまともな人間がいないなんて言ってないけど。」

そう。
なんで、支那朝鮮人がこれだけ世界中でゴキブリのように嫌われるか。
「お花畑」の人たちは、「どこそこの国」に生まれただけで、嫌われると憤っているつもりなのだろうが、あほかいな。

「何国人」だから嫌われるのではない。
その国の人間であれば、その国の文化風習に従って行動するが、それがあまりにも反社会的かつ、非文明、非文化的、犯罪的、暴力的、精神異常的であり、生まれた時からそのような環境で育ったせいで、該当国の国民の圧倒的多数がそのような振る舞いをする事が現実に起こっていると言う経験則から嫌われているのである。

それを、現実を見ないで「ほとんどの支那朝鮮人は問題ないのに一部の悪い人たちを拡大してみる」
などと、嘘八百を並べるのであれば、それを言う人間も支那朝鮮人と一緒である。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ