ヒストリエ

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漫画という表現媒体の持つ力の凄まじさ、というものをしみじみ考えさせられた本。

漫画でなくとも、小説でも、ドラマでも、映画でも、舞台でも、その作品の力量によって同じように感じる事があるのかもしれないが、
あなたは、なにか現代の物語以外の、過去や異国を舞台にした物語で、自分の持っている「常識」と全く別の「常識」が支配する世界を、自分の物、現実の物として感じさせてくれる作品をいくつ知っているだろうか。

ヒストリエ」の舞台は古代ギリシャ
アリストテレスの生きていた時代が舞台の、マケドニアアレクサンドロスに使えた実在の人物が主人公の歴史物である。
まあ、普通に読んで面白い物語であるのは当然なのだが、(なにしろ、あの寄生獣の作者、岩明均が作者だ)この物語に感嘆したのは単に話が面白いからではない。

現代の、自分たちにとっての「常識」からくる価値観を、全く感じさせずにそのままそっくり、古代人の常識世界に持って行かれる感覚。
これを体感させてくれた事がすごいのだ。

歴史の教科書などで、古代の国家の風習などが紹介されているのを読んでも、「へえ、昔はそうだったんだ、良かったそんな時代に生まれなくて」
みたいな感じで、まるっきり実感は湧かないのが普通ではなかろうか。

下手な漫画の歴史物などでも、現代人相手に話を作っているので、登場人物の思考回路や行動が、どう考えても現代の物だったりする。
私は別段古代ギリシャの歴史通と言う訳ではなく、通り一遍+α程度の知識しかないが、あの時代のギリシャ人が凄まじい選民意識を持ち、異民族をして「バルバロイ」と現代まで現役の言葉として半世界語状態で通じる「蛮族」呼ばわりしていた事は知っている。
では、このような知識を持っていたとして、あなたが古代ギリシャ人だったとした場合、ギリシャ人以外を「蛮族」と何の迷いも無く断定し、頭脳においてギリシャ人に全く及ばない蛮族は、肉体労働者としてギリシャ人に仕える事がこの世を効率的に動かす唯一の正しい方法である、と「何の疑いも無く」思えるか想像してみてほしい。

このような台詞を、主人公のエウメネスに向かって、アリストテレスが述べる場面が出てくるのだが、その時私は、ふっと、ギリシャ人以外の「人間」はギリシャ人を人間とするなら「亜人種」と言うべき劣等種であり、ギリシャ人がそれを奴隷として使役するのは当然の事、というより「理にかなった事」であると、「何の疑いも無く、しかも見渡す限りの周辺地域全てで誰もがそう思っている世界」に連れて行かれた気がしたのだ。

日本人と言うのはどうも、根本的に世界の他の人種、民族と比較して、差別意識が馬鹿みたいに薄い。
「在日差別が〜!」「部落差別が〜!」なんぞとわめいている馬鹿は、世界一般に置ける「差別」と言う物のレベルを知らないからあんなもんをして差別だなんぞとぬかせるのだ。
もっとも、あいつらは本気で差別があると思っているのではなく、差別とわめけばお人好し事なかれ主義の日本人から金を搾り取れると味を占めて集りをやってるだけだ。

本当の、というか、「世界標準での差別」と言う物は、民族が違うとか、人種が違うとか、身分が違うと言うだけで、そこにいる人間を「人間ではなく亜人種」と考える事ができ、かつ、それをどのように残虐な扱いをしてもかまわない「奴隷」として扱う事である。
言葉でこのように説明されて、あなたが作家かなにかだとして、差別をする側の登場人物の行動や、台詞を、真実味を以て作る事ができるだろうか?
そういう物を作る為には、差別をする側が、何を思い、どのような思考回路の結果、行動するのかを自分の事であるかのように想像できなければならない。

が、普通に生きてきた日本人には、そういう人物の行動の思考回路など、想像すらできないのである。
あなたは想像できるだろうか?

例えばあなたがアラブの富豪だとして、フィリピン女性をメイドとして雇った。
この場合大抵は、その家の男性全ての性処理を、無償でやらされるハメになる。
拒否したら?
その家にムチでもあれば、ムチで殴られるだろうし、無ければ何か他の物で殴られるだろうし、素手でも殴られるだろう。
顔など原型もとどめないほど殴られるのは当然、台所に行けば包丁くらいはあるのだから、刃物の傷は体中につけられる。
適当なところで主人の言いなりになっていればひどい事にはならないかもしれない。
しかし、仮に従順に全く逆らわなかったとしても、主人の機嫌が悪いときの気晴らしに、体中包丁で切り刻む「遊び」をされてあの世いきかもしれない。

そういう事をするのが「日常」で、「当然の権利」で、「非難されるいわれなど全くない」、「かわいそう?なんで奴隷をかわいそうなどと考えるんだ」と、「本気で、みじんの疑いも無く」考える人間を、そういう人間を異常どころか、「そんなの普通の事じゃないか」と言う人間だけで構成される社会と言う物を、あなたは想像する事ができるだろうか?
(ちなみにこういう社会は古代の歴史の彼方にだけ存在するのではなく、現代でもアラブやインドなど、奴隷文化が色濃く残る世界では日常茶飯の現実である)
なぜ、そういう事をする気になれるのかを、賛成するのではない、あくまで想像で、現実に自分が、そういう行動を「当然」「普通のこと」と思って実行する場面を思い描けるだろうか?
というか、自分が実際やろうとは思わないけど、かくかくしかじかこういう感情の動きがあってこう考えるんだな、と実感できるだろうか?

今のところ私には、人間に限らず生物を虐待する思考回路と言うのは理解と言うか、「腑に落ちる感じで実感」できた事は無い。
よく戦争物などで、捕虜を拷問するサディストなどが出てくるが、なんか芝居めいているし、そういう行動をする人間の感情や、思考回路が理解できるような物語と言うのを見た事が無い。
「芝居めいていない」だけなら、「ハンニバル」のアンソニーホプキンスがやってくれたが・・。
あの役の思考回路を観客が理解できる、と言う話の作りではなかった。
ヒストリエ」の、あの場面を読むまで、「異人種を、異人種であるが故に劣った物として何の疑いも無く考える」という感覚も、理解できはしなかった。
それが、この本を読んでいるうち、すとん、と、「わかった」。
あ、なるほど。
と言う感じに。

もっとも、これは、読み手の側の体験や知識に左右されるのかもしれない、と思わないではないが、改めて読み返してみても、あの場面で「すとん」とくる為の伏線と言うか、風俗描写が絶妙に配置されているので、かなりの確率で読み手に「すとん」と実感を湧かせる事ができるのではないかと思う。

この体験とは少し違ってくるが、関連のある体験に、日本に置ける昔の「身売り」がある。
親に売られて体を売る、その娘が、親兄弟を恨まずに、自分が働く事で身売りの金だけではなく、その後の生活費まで仕送りしていた、という事実。
その売られた娘が、親孝行だと、家族の役に立てたと喜んで区会に身を沈めたと言うのが、私には長い事理解できなかった。

自分を犠牲にして、のうのうとしている親兄弟(まあ貧乏ではあるのだろうが)の為に、何故仕送りなんぞ。
社会的な圧力で、娘が親の為に犠牲になるのは「いいこと」と洗脳されていたんだろうな、と思っていたのである。
それが、何かの拍子に、「すとん」ときたのだ。
いや、自分がその立場になったら喜んで身を売るのかと言ったらそうではないのだが、なぜ彼女らが家族を恨まなかったのかが「すとん」ときたのである。

「家族が大好きだったから、家族を愛していたから」

・・・それだけだ。

家族の為に身を売る事になった女性は犠牲者でかわいそうなのではなく、そのような苦界に身を沈めても愛おしい存在がいる、恵まれた人であったか、と。
家族何ぞの為に苦界に身を沈めるなぞとんでもない、と考える自分は、そのような犠牲を払ってまで愛するものを持たない、彼女らから見たら惨めな存在であったのだと。

何か特別なきっかけがあった訳ではなく、突然ふっと、それに気がついた感じだった。
気がついた後、呆然とはしたが・・。

もちろん、「俺を愛しているならソープで稼いでこいや」などと言う男の為に「ええよろこんで」なぞと言うのが幸せなことだと言っているのではない。
最初に思っていた通り、本当はイヤだけどそうするより他無かった人だって沢山いたに違いない。
ただ、自分の体験として、自分にとって死ぬほどつらい行為を忍んででも守りたい相手がいる、という状況になった事が無いが故に、見えなかった、理解できなかった感情や、行動と言う物があるのだ、と気がついたのである。

そしてこのような体験は、異文化と言う物を理解するときの基本なのだな、と思い至った。
理解したからと言ってそれを肯定すると言うのではなく、ただ、自分にとっての常識では理解できない行動をする人間が、「なぜ」そういう行動に至るのか、その思考回路を理解する。

これは、考えてみると生きて行く上必要な能力なのだと、改めてと思った次第である。

ヒストリエ コミック 1-7巻 セット (アフタヌーンKC)

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