悪魔の手鞠歌

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横溝正史金田一耕助シリーズは、子供の頃初めて映画をTVで見てからずっとファンだった。

推理ものではあっても、ほとんどオカルトじゃないか、と言うような、あの独特の泥臭い、陰惨な雰囲気。
昭和の終戦直後のじっとりと日本的な、あか抜けない、それでいてどっしりと安定感のある社会感。

古谷一行のドラマシリーズも、昨今のまるで昭和が感じられない、鶴太郎その他が主演している駄作に比べればすばらしいとは思うのだが、古谷一行では小説に出てくる金田一より格好良過ぎ、頼りがいがあり過ぎで、そぐわないのだ。

石坂浩二の私生活がらみで、あの人が好きではないと言う人は大勢いるだろうが(私だとてあの離婚劇は無いだろうと思った。男を下げたよなあ、あの人)、私は本来、役者だの相撲取りだのの、「堅気」では無い商売の、まして「芸」を売って生きる役者なんて言うのは、私生活がどうであろうと、芝居さえ面白ければ、それこそ「芸」の肥やしであり、堅気の理屈でしのごの言うのは野暮の骨頂だと思っている。
よって、石坂浩二の演じた金田一耕助が、まるで小説から抜け出てきたようだと言う賛辞を変えるつもりは全くない。
たまたま見た目が金田一の雰囲気にあっていたと言うだけでは、あの金田一はできない。
市川監督の力量はもちろんだが、役者の力量あっての、あの存在感だった。
小説でもそうだが、金田一耕助という、飄々としてほのぼのした、頼りないのに頼りがいのある探偵の存在が無かったら、あのシリーズは真っ暗の闇の中に穴を掘るようなエログロバイオレンス物語で終わってしまっている。

市川崑監督が描き出す、あの昭和のくら〜い、じっとりとした雰囲気。
あれが無ければ横溝正史の世界ではない。

市川崑監督の映画の中の世界が、イメージとして、裸電球と、金屏風に和蝋燭、豪奢な行灯、朽ちかけて雨漏りする藁葺き屋根の埴生の宿と、もはや見る事のできなくなった、「特別ではない」大工の建てた豪華な日本建築で構成されている、横溝正史の世界がそのまま映像になったような世界だとするなら、昨今のリメイク物は、Photoshopと、蛍光灯と、Zライトと、新建材で作った書き割りの中で、呉服屋から仕付け糸もとらずに持ってきた舞台衣装で昭和の時代には絶対いなかったであろう8頭身美人や、どう見ても戦後とは思えない肉付き、骨格の金田一他で構成されている、現代のTV業界の貧困状態を説明するドキュメンタリーのようだ。

まるで物語りに感情移入できない。
学芸会並みの代物だ。
好みがどうとかいう問題ではない。

いっその事、金田一シリーズフュージョン作品とでもしたらよかったのに。

長い事、映画の出来があまりに良かったせいで、小説の方を読まずにいたのだが、かなり昔に一通り読み切ったはずではあった。
が、その後10年くらい読み返した覚えが無く、話の内容がうろ覚えになっていたところに、火がつくように読みたい病が再発し、図書観で一気に6冊も借りてきた。

まだ全部読み返した訳ではないのだが、以前一気読みした際に、この人の書く小説には、とにかく強姦シーンが出てこないと話を作れないのだろうかと、半ばあきれた物だ。

が、「悪魔の手鞠歌」にはかろうじて強姦シーンは出てこなかった。

そのかわり、不倫の大安売りだ。
映画も見てるはずだし、以前一度読んでいるはずなのだが、こんな話だったっけと、ものすごく楽しく読み直す事ができた。

にしても、わかっていた事ではあるが、戦前の日本に置ける、「身分」差別。
差別といっても、日本に置ける差別なんぞ、ヨーロパやアメリカ、支那、インドに比べるとお遊び程度の物ではあるが(なんてったって、身分のせいで分けも無く遊びで殴り殺されるとか、焼き殺されるとか言う事がある訳じゃないし)、これが濃厚に描写されているのが印象深い。
以前読んだときにはこんな事には全く気がつかなかった。

この話の中で、田舎での百姓の身分・・武士などの特権階級はもちろんの事だが、同じ百姓でも、米を作っている百姓と、米以外の物を作る百姓では身分が違い、米以外の物を作るような輩は実入りが良かろうが軽蔑の対象であった、などと言うのは、知識として知ってはいたが、近年忘れ果てていた感覚だった。

そして、終戦を前後して、それらの身分差別意識を持ったままの田舎の「階級制度」が崩れていく過程。
これが、克明に描かれているのが、ものすごく興味深かったのだ。

片岡鶴太郎版の金田一シリーズの駄作っぷりを、単純に昭和の香りがしない、薄っぺらい役者と、セット、衣装のせいと思っていたが、その薄っぺらさを裏付けているのは、こういう、「昭和の現実」を体感していないが故だったかと思い至った。

もちろん、役者と言うのは自分が体験した事しか演技できないのでは商売上がったりな訳で、素人が小説を読んだだけで感ずる事ができる昭和と平成の時代感覚を演技の中に漂わせる事ができないのは、役者が大根だからである。

しかし、いわゆる時代劇の場合、もはや当時を実際に生きて知っている人間は観客にいない訳で、現実と芝居の中を比較する事は不可能だ。

でも、昭和であれば、現実にあの雰囲気を生きてきた人間が、平成の今でもゴロゴロしている。
まして、あの時代は写真もあれば、映画も、映像もある。
今後も、「現実の昭和」と、「芝居で作られた昭和」は常に比べる事ができる舞台であり続ける。

いつか、石坂浩二を超え、昭和の香りはそのままに新しい横溝正史の世界を描く映像の世界を見る事はできるだろうか。



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