チェーザレ 10 ネタばれって程の事はないけどエピ紹介あり

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チェーザレ 破壊の創造者(10) (KCデラックス)

チェーザレ 破壊の創造者(10) (KCデラックス)

マンガできちんとした物語を書きたい、と思ったらもう青年誌へ行くしかないのかなあ、という思いを強くする事例のひとつがこの惣領冬実氏の「チェーザレ」です。

いま、少女マンガで「物語」と言い有るようなものを掲載できてるのって、白泉社の「メロディ」と、小学館の「Flowers」くらいかな。
「Flowers」は、古き良き少女マンガのラインナップがそのままの品質で残っている感じ。
掲載されている作品分野も豊富で、読者を引きつける看板作家の作品が数作品、周りを個性派がかためて・・昔ながらの少女マンガ雑誌の王道を守ってる。

惣領冬実氏も、昔はべたべたなガキンチョの恋愛物を書いていた作家で、個性的な絵と、話の作りのうまさは有っても、私的には興味の持てない作家でした。
昨今、きかないなあと思っていたら、数年前、書店でこの本を見付けてびっくり。

他の書評でも、この人が硬派な話を書くなんて、というのが多い多い。

絵柄も昔の面影は有るのだけれどこの重い上にも重たい話を書くのに十分な重厚さをまとっていて、以外でした。
こういう、凄まじいまでの作家の成長を見せられるのは嬉しい!!

チェーザレ」は言わずと知れたチェーザレ・ボルジアのことで、タイトル通り彼の人生の物語です。
作者の意気込みが伝わってくるのは、当時の風俗の本当に細かい再現。

服装、室内調度、食事、建築、馬車の形態・・
よくぞここまで、という感じ。
チェーザレ・ボルジアを扱ったマンガと言うのは他にごまんと有るのですが、大抵は物語の面白さを優先させて、かなり華美で現実離れした舞台になっているんですよねえ。
いかな、中世の華といわれたルネサンス期とはいえ、不潔の権家のようなヨーロッパで、あんな文明的な生活してるわけないだろう、みたいな。

この作品の中では、そういう、なんか、今でも歩いてるだけで伝染病にやられそうな、ぞわぞわする、見えてるとこは一応きれいになってるけど・・っていうような風情がにじみでていて、安全な日本からこういう世界を覗き見るのは面白い体験です。

今回の話で印象に残ったエピソードをひとつご紹介。

ローマへ行く事になる、フィレンツェでの友人、アンジェロにチェーザレは言います。
前振りとしてですが、彼は、以前、貧困からこそ泥しようとした貧民窟の孤児の子供を、職人として独り立ちできるよう、渡りを付けた事が有ったのです。

「ローマでは貧民にかかわるな
あそこにはお前が救ってやった子供と同じ境遇の子が数えきれないほどいる
かまっていてはきりがない」

うなだれるアンジェロに、チェーザレが子供の頃、父親であるロドリーゴ・ボルジアとの会話の回想を語ります。

・・それ以来何かあるごとに父は褒美と称して私に菓子をくれた。
それがいつの間にか当たり前の事になっていた私はある日ー

「父上、あそこの貧民の子にも菓子を分けてやってよろしいですか?」
「ならんっっ!」

「良いか?!チェーザレ、二度とそのような事を考えてはならん!」
「今後貧民には一切近づくなよいな!?」

思いがけず怒鳴られてうなだれるチェーザレを困ったように見つめてロドリーゴチェーザレの父の生臭ぼうず)が言います。

「貧民には貧民のあり方と言う物がある」
「もし仮にお前が菓子を与えたなら
あの子供はきっとおまえのことを忘れはしないだろう
それどころかお前を見かけたらつきまとい また菓子をくれとせがむかもしれん」

「その時お前は確実に菓子を与える事ができるのか?」

「父のその言葉に一言も返せなかった」
「私はまだ父の庇護下にある子供に過ぎなかった
私のやろうとした事は善意ではない。
ただの驕りだ

私は、「寄付」と名のつく物は基本的にしません。
これが、人間を助ける為の物ではなく、環境を守る為の物とか、なにかのイベントの費用とかならまだ出す事が有りますが、人間相手に金銭を恵むのは、「相手が自分より恵まれた人間」で、「何か災難に有ったときの見舞いとして」、なら全く抵抗はないのですが。
これが自他ともに認める破綻国家や貧困国家となると、よくよくの天災にでも見舞われたときの、一時的見舞金として、というのがぎりぎり許容範囲です。

「人」に対する支援は、返してもらう事が前提の「投資」で有れば、まだ対等になれます。
寄付というのは、たとえそれが幼いチェーザレのようではなく自立して自分の責任で稼いでいる大人だとしても、相手に金を投げつけて媚を売れ、と言っている行為にしか思えないのです。

紐付き援助だなどといわれて、日本の建築会社に仕事を発注する為の方便だ、などと馬鹿サヨクが非難して来た日本のODAは、自分は恵んでやる立場だとの傲慢な欧米諸国の無償援助に比較して、対象国に仕事を、日本の高い技術でのプロジェクトで働く事で実質的な技術を習得する対象国の人たちを増やし、結果ほとんどの国が自立への道を歩みだしています。

「くれてやる」

ということは、よくよくその国民の性質が、勤勉と誇りに満ちた物でない限り、たかり根性の乞食を量産するだけの結果に終わるのです。
そして、この世界に、ぐうたら被害者面をしていれば金が降ってくると知って、それを恥と思い働くような勤勉な国民は多くはないのです。

ハイチなんぞはいい例です。
あの国の国会議事堂は例の地震で倒壊したままいつまでも直されません。
なぜか?
世界中からあんなにたくさんの義援金が集まったじゃない。
自分たちで直す技術などないのはわかるけど、その金で外国の業者に頼めば?
と普通の人は思いますよね。

あの国の土人どもの考える事と来たら、ホント日本人には理解不能
朝鮮人どもの斜め上の理屈にも、パターンを一通り学習するまでは「よくそんな事考えつくなあ」
と、ある意味感心したものだが、久々に新しいバージョンの土人思考を聞いてめまいがしたよ。

ああいうシンボリックな建物が復旧してしまうと、もう大丈夫だと思われて、寄付が集まらなくなるからなおさないでおくんだ。
そうすれば、大変だと思って金を恵んでくれる

死んでしまえ。まじで。
てめえの口はてめえでまかなえ。
それができんのなら死ね。
それがこの地球上の自然の掟だ。

助け合いだの、義援金だのはお互い様の約束事を理解できる人間同士で行うものなんだよ!!!!
現世人類の範疇に入らない輩は、人間界のセーフティネットに乗っかる資格はない。
ダイレクトに自然界の掟に従ってくれ。

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